「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イ
エスは次のたとえを話されました。二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。」(9-10)ファリサイ派の
人とは、律法を厳格に守り、人々に教えている人たち、律法を守ることが正しい人間だと考え、自らを正しい者としていた。一方の徴税人とはローマ政府に納め
る税金をユダヤの同胞から厳しく取り立てる仕事をしている人で、ユダヤ社会からは裏切者として嫌われていた。
ファリサイ派の人は立って心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取るもの、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、こ
の徴税人のような者でないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(11-12)
一方の「徴税人は遠くに立って目を天にあげようともせず、胸を打ちながら言った。神様、罪人の私を憐れんでください。」(13)この二人の祈りを聞かれ神
が義とされたのはファリサイ派の人ではなく、徴税人だった。なぜ神は罪人を義とされたのか?
ファリサイ派の人の祈りは、神様で始まるが、その後は全て「わたしが、わたしが。」彼の基準は神ではなく常に「私」です。故に自分に固守し、他人と比較
をし、「私」は悪い者ではなく正しい者だとうぬぼれ、人を見下し、高ぶってしまうのです。一方の徴税人は遠く離れて立ち、目を上げることもできませんでし
た。徴税人は神の前にあって自分がどれほどの者であるかを悟っていた。だから、この罪人を憐れんで下さい、としか言えなかった。それは自分の中に絶対的な
神の義という基準があったからです。故に神の前でへりくだることしかできなかったのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」
(14)
神が優等生のような賢いファリサイ派の人の祈りを退けられ、徴税人のような罪人の祈りを義とされたのは、神を恐れ、自らを罪ある者と認め、神の前に謙虚であったからです。私たちの目は外見や社会的地位に左右されるが、主イエスの目は常に内なるものに注がれているのです。