主イエスのもとに何人かの人々が来て悪い知らせを告げた。「ピラトがガリラ
ヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた。」(1)
これはエルサレム神殿に礼拝に来ていたガリラヤ人がピラトに殺された。その知らせを受けた主イエスは、その原因を聞く事なく、逆に彼らに質問された。「そ
のガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。」(2)続けて「また、シロアムの塔が倒れ
て死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。」(4)とも聞かれた。
主イエスはなぜ、このような質問をされたのでしょうか、それは当時、多くの人々が、その身に災難が起きると、原因は罪から来ていると信じていたからです。
弟子たちもそうでした。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか、本人ですか、それとも両親ですか。」(ヨハネ9:2)と
主イエスに尋ねた。まさに因果応報に悩まされていたのです。さて、ここではっきりさせておかなければならない事があります。主イエスはガリラヤ人に起きた
災難も、シロアムの災難も、罪と関係があるのか、と言う事に関して「決してそうではない」と仰せられた。
次に主イエスは「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」(5)と仰せられた。それは迷信に心を奪われることなく、あなた
がたの見るべきところ、心を向けるところは神であることを教えられた。パウロも「信仰の創始者であり完成者であられるイエス・キリストから目を離さないで
いなさい。」(ヘブライ12:2)と言っています。
皆さんの心はどこに向けられていますか。その向けられている道の先には何がありますか。これは人生にとってとても大切なことです。主イエスは今日も私たち
に、あなたが心を向けて歩んでいる道は本当に大丈夫か、その道は永遠の命につながっているのか、それとも滅びに向かっているのかと問うのです。悔い改め
は、世に向いている心を十字架へと向けなおすことです。世に生きる私たちだからこそ、日々、悔い改めが必要なのです。