主日礼拝メッセージ      平和を覚える礼拝−2]                                                                  2021年08月15日 

「キリストの平和@ 神との和解」

山岸 明牧師

エフェソの信徒への手紙2章14−17節 (新約p354)
十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、
十字架によって 敵意を滅ぼされました。」



今日8月15日は「終戦の日」。戦後76年がたちました。今は戦争もなく日本 は平和のように感じていますが、そこに暮らす私たちはどうでしょう。現実は、私の中にも、私の身近にも平和は少なく、常に争いが起きている状況です。主イ エスは「平和を実現できる人は幸いだ」と仰せられました。私たちはどうしたら平和を実現できるのでしょうか。争いは、私は正しいというところから始まりま す。聖書は言います。正しいのは神のみ、その正しさを自分のものにしようとするとき、争いが始まるのです。

神の御心は教会から、また、私たち一人ひとりから平和が広がって行くこと。そのために「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によっ て敵意を滅ぼされました。」(14)とあるように私たちが平和を実現する者となるには、私の中にある「敵意と言う壁」が壊されなければなりません。

それは、私の中で自分は正しいと思う壁、これが『ごめんなさい。』も言えない自分をつくりあげてしまうのです。私は正しい、相手が悪いという中に平和は実 現できないのです。私たちが主イエスの十字架の前に出ると言うことは、『あの人がどうだとか。』、『この人がこうだったとか。』ではなく『私はどうなの か。』が常に問われていくのです。

正義である神の前に立って、私は正し者だと言えるでしょうか。平和のつくり主である神の前に立って、私は自分で平和をつくれるから大丈夫だと言えるでしょ うか。主イエスの十字架の前に立って、あなたの愛も救いも必要ないと言えるでしょうか。神の前に立ったとき、そこに見えるのは自分の罪だけです。この罪を わきに置いて、本当の『平和』はないのです。

私たちがこの主イエスの前にへりくださり、悔い改め(神に背を向けていた心を神に向け直すこと)、神との和解を求めるなら、神が私たちを平和の道具として 用いてくださいます。主イエスは仰せられた。「狭き門から入りなさい。」(マタイ17:13)神の前に「ごめんなさい。」と言うことは「狭き門」です。だ が、そこから本当の平和が始まるのです。それは私の平和ではなく、主イエスによって与えられる十字架の平和です。

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