人を裁くな:私たちは家庭や職場、また教会の
中でも相手の過ちを責め、裁き、罪に定めていないでしょうか。主イエスは「裁いてはいけない」と仰せられた。それは、私たちの裁きが間違っているからで
す。主イエスは「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(41)と仰せられた。相手の欠点は良く見え
るのに、自分の欠点には気づかない。
私たちがどんなに正しいと言っても、義なる神の前において「自分は正しい」と主張できる人はいません。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はな
い。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて同じことをしているからです。神はこのようなこと行う者を正しくお裁
きになることを知っています。」(ローマ2:1)。私たちが傷つけられた痛みから解放されるためにも裁く事をやめましょう。
赦しなさい:主イエスは「主の祈り」中で「我らに罪を犯す
ものを我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と教えられた。また十字架の苦しみの中から「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られた。赦すとい
うのは容易なことではありません。しかし、聖書ははっきりと言います。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦
して下さったように、あなたがたも同じようにしなさい。」(コロサイ3:13)赦しがたい相手も、神は同じように愛されているとを忘れないで下さい。
与えなさい:「神は、その独り子をお与えになるほどに、世
を愛された」(ヨハネ3:16)とあるように、神は私たちにも「与える者になってほしい。」と願っています。私たちは何を与えられるだろうか?それは神か
ら与えられたもの、愛、赦し、慰め、励まし、希望。また時間、富、賜物など。これら与えられているものを自分だけのものにせず、『受けるより与えるほうが
幸いである。』(使徒20:35)と言われた主イエスの言葉を思い出し、高ぶることなく、上から目線ではなく、へりくだって、へりくだって、主イエスのよ
うに与えていくのです。