主日礼拝メッセージ                                                                            2022年2月13日 

「 教会の使命(2)奉仕すること 」


山岸 明牧師

マルコによる福音書 10章 42-45 節
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、
また、多くの人の身代りとして
自分の命を献げるために来たのである。」



 聖書にしるされて奉仕「ディアコニア」は、隣人愛のもとになり、そこには喜 んで、自由意志を持って仕えることも含まれています。あなたの前に、やりたくない奉仕、つまらない奉仕が来たらどうしますか。私にはその賜物はないからと 言って目を背けますか。奉仕するのもしないのも自由だと言って何もしませんか。聖書は全てのクリスチャンは奉仕に召されていると教えます。主イエスは「わたしは仕えられるためではなく、仕えるためにきた。」(マタイ20:28)と仰せらた。この主イエスを信じて従うところに、私たちクリスチャンの生き方があります。

神はあなたを必要とされている。
「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵の善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」(ペトロ一4: 10)私たちは与えられた賜物を持って仕えていきます。神はご自分の目的のために、教会の使命と隣人への働きのためにあなたを必要とされています。「イエ スはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイ エスをもてなした」(マタイ8:14−15)。彼女は与えられた健康を生かして、神と人に仕えたのです。彼女は“もてなし”という奉仕をした。僕は、今 持っているもので情熱を注ぎ、最善を尽くすのです。

仕える用意はできていますか
何をするにしても『心からそれを行う』のが僕です。立派になりすぎて、そんな奉仕はできません、とはならずに、主イエスに心を向けてください。主イエスは 人の嫌がる卑しい仕事を率先して行いました。重い皮膚病の人に仕え、人の足を洗いました。(当時は奴隷の仕事)、子どもたちの面倒を見、朝食の用意もしま した。人の偉大さは小さな仕事の中に現れるのです。もし、僕の心を持って打ち込むならば、どんなにつまらない、小さな奉仕であっても価値ある働きとなるの です。そして、喜んで僕になろうという人のための道は大きく開かれています。



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