主日礼拝メッセージ                                                                            2022年03月06日 

「 教会の使命(5)教え、訓練すること 」


山岸 明牧師

ヘブライ人への手紙 12 章 4 - 11 節
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、

悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、
義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」



 
 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛するものを鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」(ヘブライ12:5−6)。主が私たちを鍛錬する目的は何でしょう?

1,主はなぜ鍛錬をされるのか。
  この鍛錬には『しつけ』とか『教育』という意味も含まれています。親が子どもをしつけ、教育するように、主は私たちを愛する子として、正しく成長できるよ うに鍛錬(しつけ・教育)をされるのです。「主は愛するものを鍛え、子として受け入れる者を、鞭打たれるからである。」

2、主の鍛錬は日々の生活の中で受けます
 ある人には苦難を通して、ある人には誘惑を通して、ある人には悲しみを通して、ある人には痛みを通して、神に心を向けさせます。また。自分には合わない 人を側に置いて愛する事を学ばせたり、ある人には失敗を通して謙虚になる事を教えます。この主の訓練の一つ一つが私たちの人格を整え、成長させるためなの です。ですから「主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。」(5)「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、 何か思いがけないことが生じたように、驚き怪しんではなりません。」(ペトロ㈠4:12)とある通りです。

3、主の鍛錬の最終目的は何かを覚えておきましょう。
 大宣教命令の中に「あなたがたは行ってすべての民を弟子にしなさい。」とあるように、主は私たちを鍛錬し鍛え、キリストに似た者(弟子)とすることで す。それは、神を第一として生きることです。人生には、日々いろいろな問題が起こります。何で、どうして、不条理なこともたくさん起きます。神を知らない 人生は、「嘆きと」「絶望」で終わりますが、神を信頼する者は決して絶望で終わることはありません。「後になると、それで鍛え上げられた人々に、義という 平和に満ちた実を結ばせるのです。」(へブル12:11)


 戻る