主日礼拝メッセージ                                                               2022年08月28日

御言葉に心燃やされ
  

山岸 明牧師

ルカによる福音書24 章28−35 節
「二人は、『道で話しておられるとき、
また聖書を説明してくださったとき、
わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」


 
 二人の弟子がエマオへ帰る途中、主イエスの復活について話し合っていた。それは、女性たちが、主イエスが葬られた墓に行ってみると、墓の入り 口をふさいでいた大きな墓がわきに転がされ、中に入ってみると主イエスの遺体がなかった。途方に暮れていると、天使が現われ、イエスは生きておられる、と 告げた。それから仲間の弟子たちのところに復活の主が現れた。

 弟子の二人は、その話を聞いて、そんなこと信じられない、いや、もしかしたら本当かも、などと言っていたのでしょう。その時、復 活された主イエスが二人のそばに歩み寄って来て、一緒に歩き始められた。しかし、彼らの目が遮られていて、それが主イエスだとは分からなかった。

 私たちも主イエスが共におられると言う事を何十回、何百回と聞いています。でも弟子たちと同じように、主イエスが共におられるのに、それが分からないときがある。それは「私たちの目が遮られている。」という。パウロは、「いつも彼らの心には覆いが掛かっている。」(コリント㈡3:15)と言った。
 目の前にある現実に翻弄されたり、強い欲望などに目が遮られ、主イエスが見えなくなってしまうことがある。ではどうしたら霊的な目が開かれていくのか?弟子たちの次の言葉に注目します。「二人は、道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」(32)と。御言葉によって彼らの心は不思議と燃えたのです。

 私たちの心は御言葉によって燃えているでしょうか。私たちの心は一時的には燃えるのですが、時間がたつと消えてしまいます。私た ちの人生、燃え尽きない火によって燃やされることが大切です。それは御言葉によって心が燃やされること。御言葉は生きています。御言葉には命があります。 この御言葉にしっかり立つことです。「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって、呼ばれている者です。」(エレミヤ15:16)