「悔い改めはいつも前向きに」
山岸 明牧師
ヨハネ黙示録3章14−22節 新約 456
「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。
だから、熱心に努めよ、悔い改めよ。」
ヨハネ黙示録の中に7つの教会に宛てた手紙が記されている。この手紙は「キリストが天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。」(1)
それぞれ教会に問題、課題があった。愛から離れてしまった教会、サタンの集まりだと指摘された教会、他の教えを信じてしまった教会、あまりにも寛容すぎた
教会、眠りこけて死にそうな教会、無関心になってしまった教会、反対に信仰ゆえに忍耐を必要とした教会もあった。7つの教会の中で5つの教会に対し主は強
く「悔い改め」を迫った。7つの教会が抱えていた問題は、そのまま、今日の教会の問題であり、私の信仰の問題でもあることを覚えたい。
最も叱責されたラオディキア教会(信徒)は経済的にも豊かな町にあった。そこに住む人々の生活は安定し、楽しみもあり、自己満足の中で主への感謝が失われ、自らの現実の姿が見えなくなっていた。「あなたは『わたしは金持ちだ、満ち足りている。何一つ必要なものはない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」(17)と叱責された。自己満足の中で救いなど関係ない、必要ない、このように全体的に無関心になっている。
何か今の日本と重なって見えるところがあります。あの戦後の貧しい時代から人々は努力を惜しまず頑張り、世界でも有数の経済大国になり、多くの人が豊か
な暮らしが出来る様になった。しかし、そこで失ってきたものも大きかった。あのラオディキアの町の人々のように、自分にとって救いなど感じない、神に頼る
ほど困っていない、本当の自分が見えていないのです。
そういう中で主は、あなたがたの信仰はなまぬるい(無関心)と言った。そして冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。マザーテレサが愛の反対は憎しみ
ではなく無関心だと言った言葉を思いだす。主はこの無関心に対して厳しく悔い改めを迫った。しかし悔い改めは、私たちクリスチャンにとって、実は大きな希
望です。私の信仰はなまぬるくて駄目だ、いつも世に流されてばっかり、というような信仰でも、悔い改め(主に立ち返る時)、主は私たちの信仰を甦らせ、命
に至らせて成長させてくださいます。故に、悔い改めは否定的に捉えるのではなく、いつも前向きに捉えていきましょう。