教会には建物の一番目立つところに十字架が掲げられています。それはただのシンボルとして掲げているのではありません。主イエスの時代、十字架とはもっとも残酷な処刑の道具でした。その呪いの象徴でもある十字架が掲げられているのには、どんな意味があるのでしょうか。
パウロは「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(7:15)と
言った。パウロは正しく生きたいと努力しても、正しく生きられない。人を愛したいと努力しているのに愛せない。逆に憎んでしまう。謙遜に生きようとしてい
るのに生きられない、逆に傲慢になり、頑固になり、自分勝手に生きてしまう。赦したいと思っているのに赦せない、自分の努力ではどうすることもできない。「そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(7:20)と告白している。これは、どんなに努力しても真実に生きられないパウロの叫びです。「わたしは、何とみじめな人間でしょう。死に定められたこの体から一体だれが救ってくれるでしょうか。」(7:24)
今、パウロは自分の罪と真剣に向き合っている。罪ゆえに神の前に義とされない、「罪の報酬は死」と定められた法則から、だれか私を救ってくれるのか、切
実なる叫びです。人間がどんなに努力しても、どんなに善行を積んでも、全財産を貧しい人々にささげても、神の前に自分を義とすることはできない、人が神の
前に正しい者とされるのは、主イエスの十字架を信じる信仰によってのみ、これが「信仰義認」です。罪滅ぼしの行もしないで、善行も積まないで、ただイエ
ス・キリストを救い主と信じるだけで、神の前で正しい者とされ、そして救われ、永遠の命が与えられる、何か有難みが無くなってしまうように思いますが、そ
うではありません。その罪の救いと赦しの代償として、神の子キリストが十字架で命を捨ててくださった。この恵みによるのです。「主から罪があるとみなされない人は幸いである。」(ローマ4:8)