パウロは言った。「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい。」「どんなときにも感謝しなさい。」(16-18)これは命令形で語られています。しか
し、「いつも、絶えず、どんなときにも」となると、そんなことできません。そもそも喜びや感謝は命令されてすることではありません。パウロは何を持ってそ
う言うのでしょう。18節後半に「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と言った。
生涯の4分の1を牢獄で過ごし、多くの艱難・苦難の中にあって、喜びと、祈りと、感謝の源は、死から復活された主イエスにおいて可能であった。「あなた
がたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)この偉大な主がいつも共にいて、私を守り、私を
導いてくださっている。この主イエスにあって喜びなさいと言った。
「絶えず祈りなさい。」喜びにも、感謝にも祈りが必要です。主イエスはこう祈った。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願い
をいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。」(ヨハネ11:41−42)祈りが聞かれる前から感謝をしている。これは神に対する絶対的な信頼
です。主イエスは「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコ11:24)主イエス
への信頼と確信を持って絶えず祈り続けましょう。
「どんなときにも感謝しなさい。」感謝は恵みから生まれます。恵みとは無代価で、無条件で、一方的に与えられるもの。神が人間に与えた最高の恵みはイエ
ス・キリストです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)私たちがどのような苦しみや悲しみに陥っていても、自分
を取り巻く状況が絶望的で、何の希望も持てないと思う事があっても、私たちを愛して下さる主イエスの恵みに心をとめるとき、そこから湧き出る「喜び、祈
り、感謝」がいつでも、絶えず、どんなときでも。を可能にしてくださるのです。