待降節(アドベント)第3週礼拝メッセージ 2022年12月11日
メッ セージ 『主への叫びは祈りです』
ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエス世よ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多く
の人が𠮟りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。」この叫びは絶望からの祈りです。
私たちは人生の中でたくさんの傷を負い、痛みを負い、やり切れない思いに悩みます。そんな時に、その傷や痛みをどこに持って行ったらよいのでしょうか。よ く自分の痛みを人に結びつけていってしまうことがあります。そうすると、私の傷口から苦いものがあふれ出て、結果、周りの人々を傷つけていきます。また、 その傷が自分に向けられるとき、自分を責め、自分を否定して、前に進むことができなくなってしまいます。
星野富弘さんの詩に「わたしは傷をもっている、でも、その傷のところからあなたのやさしさがしみてくる。」とある。富
弘さんは自分の傷口から主イエスの愛がしみてきたというのです。私たちの傷がイエス・キリストに結びついていくならば、私の傷口から主イエスの愛がしみて
くるのです。主イエスの憐みを受けるとき傷が癒されていくのです。更にわたし自身が憐れむ者に変えられ、わたしの傷口を通して主の憐みが流れ出てくるので
す。
イザヤは言った「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5)。
主イエスの十字架は、実に私の傷を、痛みを、その身に負って、私のために死んでくださったのです。主イエスを傷つけたのはだれか、主イエスに槍を刺したの
はだれか、主イエスに鞭打ったのはだれか、主イエスにつばをはきかけたのはだれか、それはこの私です。私の罪が主イエスを十字架に付けたのです。だが、主
イエスから返ってきたのは仕返しではなく、愛であり、赦しでありました。主イエスは私たちを深く憐れみ、すべての痛みをご自分の痛みとして引き受け、十字
架の上で私の身代わりに痛んでくださったのです。私たちはその主イエスに叫び続けるのです。