待降節(アドベント)第4週礼拝メッセージ                                                                        2022年12月18日



メッ セージ 『
祈る教会になろう

 
  

山岸 明牧師

聖書:使徒言行録12章1−5節
こうして、ペトロは牢に入れられていた。
教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」


 ヘロデ王はヨハネの兄弟ヤコブを捕え殺害した。そのことが群衆に喜ばれたので、更に弟子の中心人物であるペトロを捕えた。それは徐酵祭の時であり、各地 から巡礼に多くの人が集まっていた。そこにペトロを引きずり出して処刑すれば群衆は更に喜ぶと考えた。捕らえられたペトロは24時間監視された。「二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。」(6)逃げることも、助けだす事もできない。圧倒的な国家権力の前で教会は何をしたか?「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」(5)絶望の中でも彼らは熱心に祈っていた。

 望の中での熱心な祈り、愚かのように見えるが熱心な祈りが大逆転を起こしていく。この後、天使が現れてペトロについて来なさいと言われた。ペトロは分らないままについて行った。そのときペトロは幻を見ているようだと言ったが、町に出たとき「今、初めて本当のことが分った。」(11)と言った。信仰は従ったときに分かる世界なのです。
教会でペトロのために熱心な祈りが神にささげられていた。神はその熱心な祈りに答えてくださった。私たちはそう信じる者です。では、ペトロが救い出されな かったら、祈りは無駄だったのか。熱心さが足りなかったのか。祈りの結果だけを求めてしまうと、本当の祈りにはなっていきません。ペトロは今回救い出され たが、ヤコブは殺されてしまった。教会ではペトロと同じように熱心にヤコブの為にも祈りがささげられていたはずです。熱心に祈ったがヤコブは殺されてし まった。もし、教会が祈りの結果だけを求めていたら、きっとペトロも駄目だろうと諦め、熱心に神に祈ることはできなかった。

  祈ったら願い通りになったと言う事もある。それは、感謝なことです。しかし、一番の価値と言うのは「祈り」そのものにある事を覚えていきたい。神に祈る、 私たちが祈る、その祈りそのものが恵みである。祈りは神との交わりです。その交わりを通して、慰めを受け、励ましを受け、喜びを受け、何だか分らないけど 希望が湧いてくる。祈りは神が共にいることを一番実感するときです。祈る教会へと成長していきましょう。