クリスマス燭火礼拝・メッセージ】                      2003年12月24日                      

光は闇に輝いた

ヨハネによる福音書1章1〜14節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 クリスマスおめでとうございます。

 今夜与えられたみ言葉を心静かに読み返して下さい。聖書は言います。「言」は永遠の初めから存在し、すべての根源です。「言」はまた永遠の光であり、時間・空間を越えて輝きわたり、また輝き続けるまことの光です。今皆さんの目の前にあるローソクの光は、その後にともる電灯の明かりには勝てません。その電灯もやがて日の出と共に役割を終えます。しかし、その太陽の命も永遠ではないのです。神のみもとから輝き出る光こそ永遠であり、すべてのものをくまなく照らす真の光です。

 14節をご覧下さい。神の言、神の光は「肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。主イエス・キリストのことです。ここにクリスマスの本当の意味が見えます。イエスさまは今から2000年ほど前にユダヤのベツレヘムという町にお生まれになりましたが、イエス・キリストの歴史はそこから始まったと考えるのは間違いです。「初めに言があった」と書かれていることにご注意ください。ここに言う「初め」とは、創世記1:1の「初めに、神は天地を創造された」という、「初め」と同じ文字が用いられています。イエス・キリストは天地が造られる以前から存在しておられたということです。この神であり、言葉である方が今、人の姿となってわたしたちの間に宿ってくださいました。「宿る」という言葉についてですが、これは、石や木、鉄やコンクリートなどで作られた家に住むという意味ではなく、砂漠の民族のように、テントを張ったり、たたんだりして移動しながら生活するような宿り方を意味する文字が用いられています。実際イエスさまにはこの世に定住する土地は1Fもありませんでした。いわばホームレスのように野宿生活者でした。

讃美歌に、

「1.馬槽のなかに 産声あげ、木工(たくみ)の家に 人となりて、貧しき憂い 生くる悩み、つぶさになめし この人を見よ。 

2.食する暇もうち忘れて、虐げられし 人を訪ね、友なき者の 友となりて、心砕きし この人を見よ。 

3.全ての者を 与えし末、死のほか何も 報いられで、十字架のうえに 上げられつつ、敵を赦しし この人を見よ。 

4.この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は あらわれたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる 活ける神なれ」(讃美歌121番)

と歌われている通りのご生涯です。

 確かにイエスさまこそこの世のさまざまな闇を照らす真の光です。光はそれを歓迎しようが、しまいがお構いなしに輝きわたります。隠れて罪を重ねる者にとって、神の光が差し込んでくることは大いに困るのです。主イエスはそのような者の手で十字架に上げられました。しかし、この世の不正という闇に泣かされている人にとって、イエスさまのあらわれは慰めです。

 

 わたしが手話サークルとの出会いを経験したのは今から20年ほど昔にさかのぼります。先生は数人の健聴者で、生徒仲間は僅かな健聴者とほとんどは聴覚障害者でした。とても明るい雰囲気で、すぐに親しくなりました。障害を持っているなど微塵も感じさせない人々でした。別に誘ったわけではありませんが、先生の中の一人と数人の仲間がわたしの牧会していた教会へ来られるようになり、先生はまもなくイエス・キリストを信じてクリスチャンになりました。彼女から聞いて分かったことは、聴覚障害者の皆が皆、サークルに来られている人のように活発であるとは限らないということでした。むしろ視覚障害者の方々よりも引っ込み思案の人が多いのだそうです。理由を聞くと、音を遮断された人は光を奪われた人よりも周囲の情報を取り入れることが難しいのだそうです。点字はきちんした文法に則った思考体系を自然と身に着けさせてくれるのですが、手話は文法に関係なくその現象だけで情報交換することになるので、それを文章化することはどうしても苦手な人が多いのだそうです。

たとえば、病気になって診察室に入って筆談を求められても、うまく自分の症状と自分の気持ちを正確に伝えられないとか、戸籍謄本や住民票をもらうために、あるいは年金を受け取ろうとして役所に行っても、その手続きの方法について窓口の人がしてくれる説明がさっぱり理解できない人が多いということでした。それはただ相手が手話を知らないからというだけではないのです。聴覚に障害を持っている人の方が手話に代わる別の手段を知らない以上、微妙な意思表示を相手に伝えようがないからです。手話の先生はわたしに言いました。「わたしはイエスさまを信じる者になって手話サークル活動に新しい光が与えられました。それはただ手話の技術を習得することしていただくだけでなく、家に引きこもりがちの人が世間を恐がらず、一歩足を踏み出して、わたしも社会の一員なのだという自覚と自信を持ってくれる人が、ひとりでも多く増えるように呼びかけていくことがわたしに与えられた使命なのだと示されました」と。

 またこういう出会いも経験しました。わたしたち夫婦が時々お世話になっている床屋さんは聴覚障害を克服して立派に理髪師としてひとり立ちしている女子青年です。いつもお母さんがそばでサポートしています。彼女の場合はお母さんの教育方針で、手話を習う代わりに口話法をマスターさせました。確かに彼女の場合それはよかったと思います。手話であれば、その都度手を休めて髪型や、いろいろなお客の注文、あるいは世間話に合わせなければなりません。これが口話法ですと、時折鏡越しに相手の口の動きを見ることで手を休めることなく会話が成立します。しかしお母さんの話では、それはそれで毎日母娘とも悪戦苦闘の連続だそうです。手話は、完全でなくても一度覚えると、何とか後はその場の雰囲気で会話を続けることができますが、口話法の場合は、毎日のように発生訓練をしておかないと、肝心のときに、相手の口の動きは読めても、自分の方から応答しようにも声が出ないのだそうです。わたしたちの前ではいつもにこやかにしている母娘ですが、影ではそれこそ血のにじむ努力を重ねているのです。

 「暗闇」は光を奪われることだけを言うのではありません。音を奪われることもまた「暗闇」なのです。「暗い」という文字や、「闇」という文字を思い浮かべて下さい。どちらにも「音」という文字が含まれています。しかし、それ以上に考えて頂きたいことがあります。光を奪われた視覚障害の方々や音の世界から締め出された聴覚障害を持つ方々を見て、彼らを同情することは美しい心の現われのようですが、これが優越感に裏打ちされたものであれば、それは間違いです。優越感は何らかの障害を持つ人に対して、自分とは異なった世界の人と差別することにつながりかねません。

 目が見えるとか、見えないとか。耳が聞こえるとか聞こえないとかは大きな問題ではありません。ましてそれが差別の原因になるなら、人間は何と愚かな生き物でしょうか。今夜、あなたの霊の耳に神のみ言葉が聞こえていますか? あなたの霊の目に神の愛と真の光が届いていますか。もし、あなたを創造されたあなたの神の語りかけが聞こえないなら、あなたこそ最も哀れむべき霊的聴覚障害者です。もし、あなたの心に今夜照り輝いてくださった愛の光を感じることができないなら、あなたこそ最も哀れむべき霊的視覚障害者と言わなければなりません。

今夜、イエスさまはあなたの心のうちに宿ってくださいました。あなたの上に神さまの豊かな祝福がありますように。 祈りましょう。

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

今夜、イエスさまのお生まれを喜び、祝う、クリスマス キャンドルライト サービスにわたしたちを招いてくださったことを、心から感謝致します。

キャンドルの灯火のもとで、わたしたち一人びとりはこの灯火にまさって大いなる神さまの愛と慰めと希望の光を受けることができました。わたしたちはこれまで多くの空しい会話を重ねてきましたが、あなたのみ言葉こそ全ての根源であり、あなたのみ言葉によってわたしたちが造られた者であること、今もわたしたちを御心にかけて下さっていることを知りました。

これより後はあなたの光のもとで、あなたから受けた愛を、わたしたちの隣人に分かつ者として下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

 


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