【主日礼拝メッセ−ジ要約】                  2004年10月17日
 
「盗んではならない」
 出エジプト記20:15
 ヨハネによる福音書第3章16−17節
 
メッセージ:篠原健治兄

 

 「盗んではならない」(出エジプト記20:15)モーセの十戒の第8番目の戒めです。

 神の言葉である十戒は、隣人関係だけでなく、神との関係においても重要な戒めです。

 1.「盗んではならない」を「隣人との関係」において考えてみたい。

(1)「万引き」−極めて日常的な犯罪。万引きによる被害は年間何十億にものぼる。

(2)目に見えないもの−「知的財産」も盗みになる。

(3)「プライバシー」も盗みの対象になる。

(4)他人(隣人)の貴重な「時間」を盗むということも、よくあること

2.「盗んではならない」を「神との関係」において考えてみたい。

 英語の「Life」(1)生命(2)人生(3)生活をキーワードにしていくとわかりやすい。

(1)「生命」−体に悪いと知りながらの深酒、タバコ。徹夜麻雀。偏食。暴飲暴食。

(2)「人生」−目標もなく漫然と生きている。「生かされている」実感がない。

(3)「生活」−無意味な時間を過ごしているとしたら、神からの「Life」を盗んでいる。

 なぜ私達は、自分や隣人の「Life」を盗んでいることにすら気づかないのでしょうか。

 理由として「想像力(イマジネーション)」の欠如が挙げられます。ここで言う「想像力」とは、「あと少し考えれば(想像すれば)分かる『想像力』」のこと。万引きも盗まれた側の立場、損害、気持ちなど「あと少し想像すれば分かる」ことです。

 それでは、なぜ、私達は「あと少しの想像力」すら失っているのでしょうか。それは、私達が「自己中心性(エゴ)」という性質を持っているからです。

 人間の拙い「想像力」を遙かに越えた出来事が、ヨハネ3:16−17の御言葉です。

3:16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

    独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

3:17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、

    御子によって世が救われるためである。

もし私達に「豊かな想像力」があったとしても、神が「エゴだらけの罪人」の代わりに犠牲となって死んで下さるなど、人間の「想像力」を遙かに越えた出来事なのです。

 
  
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【主日礼拝メッセ−ジ】                     2004年10月17日
 
「盗んではならない」
 出エジプト記20:15
 
メッセージ:篠原健治兄
 
<起>
 
「盗んではならない」
 出エジプト記20:15
 十戒の第8番目の戒めです。
 
 十戒は、律法の中心的存在であり、新約聖書にも多くの引用があります。
 そして、十戒は現代生きる私達にも欠かせない重要な神様からの御言葉でもあります。
 
 十戒は、第1戒〜第5戒:神との関係における戒め
     第6戒〜第10戒:(共同体における)隣人との関係における戒め
 
今回取り上げる、「盗んではならない」は、第8戒ですので、隣人との関係における戒めであると言えます。
 
 しかし、この第6戒〜第10戒を「隣人との関係における戒め」と考えると、
単なる道徳的戒めに終わってしまいます。
 十戒は、隣人との関係だけでなく、神との関係においても重要な戒めであるのです。
 十戒は、人間と人間の関係だけでなく、神と人間の関係においても重要な戒めであると受け止める時、十戒は深く私達に迫ってくるのです。
 なぜなら、十戒は「神の言葉」だからです。
 
そこで、今日は、第8戒である「盗んではならない」を
 1.隣人との関係において
 2.神との関係において
   聞いていきたい。
 3.さらに、この「盗んではならない」をもとに、今、私達は、具体的に何をするのかを御言葉に聞いていきたい。
 
<承>
1.まず、「盗んではならない」を「隣人との関係」において考えてみたい。
 
(1)「盗み」というと、教会に来ている皆さんにとっては、あまり関係がないと思う方もいるかと思いますが、「盗み」「万引き」は、極めて日常的な犯罪です。
 ある調査によると、スーパーなど、小売業では、万引きによる被害は年間何十億にものぼると言われています。残念ですが、私達のすぐ隣で「盗み」は行われているのです。
 
(2)何も物品を盗むことだけが、盗みではありません。目に見えないもの−「知的財産」も盗みになる。コピーやダビングも、個人で楽しむ範囲では許されますが、売買目的やると処罰の対象となります。
 
(3)物品、知的財産だけでなく、「プライバシー」も盗みの対象になる。
ワイドショーや写真雑誌など、プライバシーが興味の対象となり、お金にもなるのです。
 しかし、プライバシーが暴かれた本人がどれだけ傷ついたかまでは思いが至らない。
<事例>教会においてはどうだろうか。特に、牧師やその家族のプライバシーは意外と軽視されている。ある教会では、しかも役員の方が、牧師館を自分の休憩所のように考え、時間や状況も考えずに訪れ、しかもお茶の一杯も出ないと文句を言うという困った教会員がいるという話はよく聞きます。
 神学校には、牧師の師弟が何人かいるのですが、小さいとき牧師館に自分いないときに教会員に入り込まれみ、大切にしていたおもちゃが壊され、深く傷ついたという話を聞いたことがある。献身者が足りないと、神学校週間で各種のアピールするのはいいのですが、私達はどれだけ牧師先生のプライバシーに配慮しているかもう一度考え直す必要がある。
 キリスト者でありながら、他人のプライバシーを盗んでいるとしたら、いやそのこと自体に気づいていないとしたら、私達はなんと滑稽な存在なのでしょうか。
 
(4)プライバシーだけでなく、他人(隣人)の貴重な「時間」を盗むということも、実はよくあることです。
<事例>牧師先生に相談がある。時間を決めて会う日時を決めるのですが、時間通りに来ない方がいる。待っている先生にも、次の予定などがあり、遅れてきた当人にそのこと告げると「愛がない牧師」と切り捨てる。貴重な時間を盗んでいるという発想なし。
 そこまで、いかなくても、牧師先生が主日の説教を準備に集中したい時間帯−金曜日から特に土曜日−は相談や電話は遠慮するなどの配慮が必要です。緊急でなければ、メールやFAXを活用するなど、私達教会員もっと配慮すべきです。なぜなら、牧師先生に御言葉に集中していただくことが、ひいては私達の魂の養いにもなるからです。
 
(5)このように、隣人との関係において、「物品」を盗んだことはないと言い切れる人でも、隣人の「時間」「プライバシー」などを一度も犯したことはないとどれだけの人が言えるでしょうか。
 
2.次に、「盗んではならない」を「神との関係」において考えてみたい。
 
  神の言葉である十戒は、神と人間(自分)との関係においても、極めて重要な御言葉でもあるのです。
 
(1)「盗んではならない」を「神との関係」において考えるとき、英語の「Life」という単語をキーワードにしていくとわかりやすい。
(2)英語の「Life」は、a)生命、b)人生、c)生活と訳されているが、この「Life」はだれからいただいたものか。「Life」を支配される方はだれかということです。
<事例> 昨年私の父は亡くなったのですが、a)の「生命」があるからb)人生c)生活もあるのだと改めて痛感させられた。生命があるから、喜びも悲しみも感じられるのです。
 旧約聖書ヨブ記1:21
21:「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。
  主の御名はほめたたえられよ。」
<事例>食べ物も生物学的には生命あるものです。
 いくら「私が作ったのよ」と言っても人間は、調理加工しかできない。
 人間がいくらがんばってもゼロから食物を作ることは出来ないからです。
 「Life」a)生命b)人生c)生活を支配される方は、神様さまです。
 私達は「Life」a)生命b)人生c)生活を神様からいただいているのです。
 
(3)さて、神様からいただいている大切な「生命」「人生」「生活」を私達は盗んでいないだろうかということです。
a)「生命」−体に悪いと知りながらの深酒、タバコ。徹夜麻雀。偏食。暴飲暴食。
 40歳以上−健康診断で3人に1人が、何らかの生活習慣病一歩手前か、すでに生活習慣病に罹っているそうです。
b)「人生」−漫然と生きている、目標もなく生きる、目標を探すことすらやめている。明日も今日と同じ。「生かされている」実感がないまま過ごしている。
c)「生活」−人間だれしも休息は必要ですが、無意味な時間をボーとしながら、漫然と過ごしているとしたら、これも神さまからの「Life」を無駄に垂れ流している=「盗んで貪っている」ことにつながります。
 
(4)昨今、少年犯罪の増加が大きな社会問題になっており、「命の大切さ」を子供たちに教える必要があるとよく言われます。
 しかし、「命の大切さ」を伝えるその大人自身が、本当に「Life」(生命、人生、生活)を大切にしているか。むしろ、「Life」を盗んではいないだろうか。
 自分の「人生」に目標を持ち、自分の「生活」に誇りを持っていきているだろうか。そして、何より自分の「命」をどれだけ大切にしているだろうか。
<事例>事件などが起こった後「命の大切さ」を体育館などで話をした校長先生が、タバコをスパスパ吸っていたのでは、何の説得力も持たない。
むしろ、大人自身が「Life」を盗んではいないだろうか。
 
(5)「大切」という字は「大きく切に」と書きます。つまり自分の「Life」を大切にするということうは「切に生きる」ということにつながるのです。
 どれだけ私達大人が、「切に」、「今」という時を一生懸命に生きているでしょうか。
 
3.このように、隣人との関係で、盗んだことはなくても、神との関係においてで盗んでいるのが私達の姿です。
 「盗んではならない」という御言葉の前に、私達は自分が罪人であると告白せざるを得ません。
 
 神は次のように語ります。
 「盗んではならない」
 
4.このように神の前で、自分のLife、隣人のLifeを「盗んでいる」
  いや「盗んでいる」ことすら気づかないのが私達の姿なのです。
 それでは、なぜ私達は、自分や隣人のLifeを盗んだり、盗んでいることにすら気づかないのでしょうか。
 
(1)その理由として「想像(イマジネーション)力」の欠如が挙げられます。
 もちろん、我々人間は、神のように全知全能ではありません。ですから、私達人間が、神のように、完璧な想像力を働かせることは、不可能です。人間の想像力には限界があります。私が言う「想像力」とは、「あと少し想像すれば分かる『想像力』」のことです。
<事例>
・万引き:盗まれた側の立場、損害、気持ちなど「あと少し想像すれば分かる」ことです。
・プライバシー:プライバシーが損なわれた側の立場、不愉快さなど「あと少し想像すれば分かる」ことです。
・自分の命:タバコが体に悪いことは分かっていても、健康が損なわれた姿を想像することをあえて避ける。これもまた「あと少し想像すれば分かる」ことです。
・為政者:いかなる戦争もどれだけ残酷であるか「あと少し想像すれば分かる」ことです。
 私達に「あと少しの想像力」がないばかりに、私達が、自分や隣人のLifeを盗んだり、盗んでいることにすら気づかないのです。

 

(2)それでは、なぜ、私達は「あと少しの想像力」すら失っているのでしょうか。
それは、私達が「自己中心性(エゴ)」という性質を持っているからです。
「エゴ」のない人間はいない。聖書では、この「エゴ(自己中心性)」を「罪」と呼んでいます。 まさに「エゴ」が、私達から「あと少しの想像力」すら奪っているのです。「自己中心性(エゴ)」によって、「あと少しの想像力」を失っているのが私達の姿なのです。
 
<転>
 神と隣人との関係において盗人(罪人)である私達に対して、神はどうされたか。神と隣人との関係において「あと少しの想像力」すら失った私達に対して、神はどうされたか。
 
(1)私達は、十戒を読むごとに「自分は罪人」であると神の前で告白せざるを得ません。
  今回取り上げた第8戒「盗んではならない」もそうです。
 
(2)罪人であるの私達に対して、「あと少しの想像力」すら失った私達に対して、神が「裁き」を行うなら話は分かります。しかし、神はどうされたか。
  ヨハネ3:16−17
 16:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
  独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 17:神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
  御子によって世が救われるためである。
 
・世・者=「エゴだらけの罪人」に置き換えて読んでみる。
16:神は、その独り子をお与えになったほどに、「エゴだらけの罪人」を愛された。
 独り子を信じる「エゴだらけの罪人」が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
17:神が御子を「エゴだらけの罪人たち」に遣わされたのは、「エゴだらけの罪人」を裁くためではなく、御子によって「エゴだらけの罪人」が救われるためである。
 
(3)「あと少しの想像力」すら失った私達にとって、このヨハネ3:16−17の御言葉は、私達が想像できない内容が凝縮された御言葉です。
もし私達に「豊かな想像力」があったとしても、神が「エゴだらけの罪人」の代わりに犠牲となって死んで下さるなど、人間の想像力を遙かに越えた出来事であります。
 
(4)私は、信仰には、一定の理性(想像力)は必要だと考えます。
しかし、人間の理性には限界があります。なぜなら、神様は、私達の理性や想像力を越えたお方だからです。
 
(5)人間の想像力を遙かに越えた出来事が、2000前この地上で起こったのす。その出来事とは、盗人(罪人)である私達に対して、神ご自身が十字架に架かられたという出来事です。
私達盗人の身代わりとなり、主イエスはその「Life(命)」を十字架で失われたのです。
 
<結>
1.では、私達が罪許され、神様からいただいている「Life」を有効に活用していくためにはどうすればいいのでしょうか。
 
 そのためには、
(1)自分が、神様からいただいている「Life」を盗んでいる罪人であることを自覚すること。
(2)盗みの罪の赦しを神様に求めること。
(3)主イエスが、盗みの罪の犠牲となってと信じ、受け入れること。
(4)主イエスを受け入れた証としてバプテスマを受ける。
 −残念なことに、多くのクリスチャンが、ここで終わっているのです。
 「マンネリ倦怠クリスチャン」と言ってもいいでしょう。
 「マンネリ倦怠クリスチャン」から脱皮し、神様からいただいている「Life」を盗まないためにはどうすればいいのか。
(5)それは、新しく生まれ変わった自分に与えられた神からの使命、計画、ビジョンを神に「真剣」に求めること。
 
・日本語の「真剣」という字はよくできている。偽物ではない本物の剣(つるぎ)で、まさに生きるか死ぬかの瀬戸際になった状態を「真剣」と書きます。
・私達は、まさに生きるか死ぬかの瀬戸際の状態で、祈ることがあるでしょうか。
・主イエスの祈りまではいかなくても、血がにじみ出るような祈りをすることがあるでしょうか。
・主イエスの十字架が目の前に迫ってくるような、「真剣な祈り」を経験したことがある でしょうか。
・「主よ、この僕を用いてください」とうめくように切に祈っているでしょうか。
 
(6)真剣な祈りがなされないままのクリスチャン生活は、どうしても「マンネリ」になってしまいます。
 自分が「マンネリ倦怠クリスチャン」であろうとなかろうと、確実に私達の地上の生涯は、終わりに向かって突進しています。
 確実に昨日より今日は、終わりに向かっているのです。
 
(7)ですから1日3分でいい。祈りのための時間を聖別することです。
その特別の3分間に真剣に祈りに集中するのです。
実際やってみると、最初3分間は長く感じられでしょう。
神様は、必ず私達の真剣な祈りに応えて下さり、私達に神からの使命、計画、ビジョンを与えて下さいます。
なぜなら「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」からです。
なぜなら「神はその独り子をお与えになったほどに、私達一人一人を愛された」からです。
なぜなら「神はその独り子をお与えになったほどに、あなたを愛された」からです。
 この混沌とした今の時代に生かされている私達は、神様からいただいた残りの「Life(命)」を「世の光」としてどう輝かせていくのか、神に真剣に求める時なのです。
 
 この愛の冷えた今の時代に生かされている私達は、神様からいただいた残りの「Life(命)」を「地の塩」としてどう用いていくのか、神に真剣に求める時なのです。私達は、今こそ、神様から賜った残りの「Life(命)」をどうしていけばいいのか、 神に真剣に祈り求める時なのです。
 
 私達は、今、次のように祈らずにいられないのです。
 「主よ、この僕の命を豊かに用いてください」
 
ヨハネ3:16−17
16:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
17:神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
 御子によって世が救われるためである。
 
出エジプト記20:15
15:盗んではならない。
                                   祈ります。
<祈り>
 
 天の父なる神様、私達は、隣人に対しても、そしてあなたに対しても盗んでいる者、罪人であります。
 しかし、あなたはは、その独り子イエス・キリストをお与えになったほどに、
罪人であった私達を愛されました。
 あなたが、イエス・キリストを世に遣わされたのは、私達を裁くためではなく、主イエスによって私達が救われるためであることを知りました。
 そして、何よりもあなたのことを知り、あなたの御一人子イエス・キリストの救いを知ることができたのもの、私達にあなたから賜った「Life(命)」があるからです。あなたから賜った「Life(命)」をあなたの栄光のために用いていくことができますように、この僕を用いて下さい。
 私達は、真剣に祈り求めます。私達一人一人にあなたからの使命・計画・ビジョンを与えて下さい。
 この祈りを、私達の命の主であるイエス・キリストの御名で祈ります。   
                                   アーメン。
  

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