【主日礼拝−メッセ−ジ要約】 2004年10月31日
メッセージ:高橋淑郎牧師
イスラエルでは毎年の春、除酵祭と過越祭を祝い、この日特別の食事をする慣わしがありました。それは、この民族にとって解放と新しい出発を記念するものでした。わたしたちの主イエスも弟子たちと共にこの食事をなさったのですが、讃美を歌いながらパンを裂いて弟子たちに食べさせ、祈りをささげてぶどうのジュースが入った器を順番に飲ませて、「このパンを、十字架の上で引き裂かれるわたしの体だと思って食べなさい。このぶどうのジュースを、世界中の罪びとが赦されるために十字架の上で流されるわたしの血だと思って飲みなさい。これはあなたがたが神の民とされる契約のしるしである。」と言われました。弟子たちはこのとき、裂かれたパンのかけらをリレーして食べながら、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。」(ヨハネ6:51)と言われた主のみ言葉を思い出したことでしょう。このときからキリスト教会では、これまでの「過越の食事」を、「主の晩餐」と呼ぶようになりました。
しかし、主イエスは食事中、「神の国で新しく飲むその日まで、ぶどうの実で作ったものを飲むことは決してあるまい。」と不思議な言葉を残されました。わたしたちは天国に行かなければ、主の晩餐に与れないのでしょうか。いいえ、「神の国」とか、「天国」と言われるところは時間的にも、距離的にもそんなに先の遠いところではありません。キリストの教会に来て、復活のキリストを信じる人であれば、誰でも今すぐにこのすばらしい食卓に着くことが許されるのです。なぜなら、イエス・キリストを罪からの救い主、復活の命の主と信じるなら、キリストはその人の内に宿り、その人は神の宮とされるからです。神の支配を受ける人はすでに神の国の一国民とされるのです。どうぞ、あなたも今すぐにイエス・キリストを救い主と信じ、受け入れてください。
メッセージ:高橋淑郎牧師
フランスの作曲家オリビエ・メシャンが22歳のときに作った「忘れられたささげもの」という曲があります。忘れ物とは「主イエスの十字架」であり、「わたしの罪」です。彼は言います。「イエスが十字架に上げられて死んだことを覚えているだけなら、それは単なる知識に過ぎない。問題はイエスがなぜ十字架に死なねばならなかったのかということをわたしたちはしばしば忘れてしまっている。だから、イエス・キリストの十字架は、忘れられたささげものである」と。
30年近く前になるでしょうか。ある教会の主日礼拝でメッセージの御用をさせていただいたことがあります。礼拝後、その教会の牧師と執事さんが丁重にお礼を述べられ、この教会自慢の食事をぜひ召し上がってくださいとお招きを受けました。わたしはどんなご馳走が出されるのかと内心期待しながら教会のメンバーの後からついてフェロシップホールに入って行きました。出されたご自慢のものとは水団でした。それも小麦粉で練った小さな塊が2,3個の外には、ねぎの刻み少々のほかには一切具なしの正真正銘の味噌汁水団でした。その日の日曜日は受難週だったのです。その教会では毎年受難週の日曜日に水団を頂きながら、イエス・キリストの苦難を忍ぶことになっていると言うのです。主イエスの十字架と水団とどういうかかわりがあるのかは別として、イエス・キリストが自分たちのために十字架上で苦しみを受け、死んでくださったことを体で覚えておこうとする皆さんの志にわたしは感動したものです。わたしたちは口ではイエス・キリストがわたしのために死んでくださったと感謝を言い表すものの、実際の生活において、その恵みの事実を忘れてしまっていることが多いのではないでしょうか。
今朝、わたしたちも日常の慌しい(あわただしい)生活の中で「忘れられたささげもの」を再び思い起こし、知識ではなく、わたしたちの内で出来事となるまで、心静かにみ言葉に聴く者でありたいと願います。
さて、この食事は日常の食事ではありません。除酵祭と過越祭の食事(12節)です。この食事はイスラエル民族にとって解放と新しい出発を記念するものであり(出エジプト記12章)、毎年各家庭で儀式として継続されてきました。またこの食事の度に子どもたちは、「この儀式はどういう意味か」と尋ね、家族の長はその由来を語って聞かせることになっているのです。こうして彼らは、自分たちをエジプトの鎖につながれていた奴隷の生活から解放して下さった神への感謝を忘れないように、また信仰の継承をしているのです。
著者マルコは、「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』」と、この特別の食事の模様を伝えています。小羊の肉ではなく、パンを裂かれたのです。弟子たちは裂かれたパンをひとかけらずつ食べながら、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。」(ヨハネ6:51)と言われたみ言葉を思い起こしたことでしょう。更に主は、「また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らはみなその杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。・・・』」と言われます。マタイ26:28の、「罪が赦されるように」という言葉はここに(ルカ22:20にも)見られません。マタイはイエス・キリストの十字架を罪の贖いのしるしと見て書き、マルコはイエス・キリストの十字架は罪の赦しを前提にしながら、それによって神の民とされる契約のしるしと見て書いているのです。
パン裂きに伴うみ言葉と、杯を与えた時のみ言葉は過越の食事のために定められた掟にはないのです。過越の食事の関心は、小羊の肉を裂いて食べることにあります。しかし、イエスはあえてパンと杯を用いて小羊の肉が何のために用意されているかを教えようとしておられるのです。特にぶどう汁がイエスの血を飲むことにつながるというみ言葉は全く新しい教えです。律法によると血は神聖なものだから飲んではならないと厳しく戒められてきました。それなのに、主は、「この杯(ぶどう汁)はわたしの流す血である。記念して飲みなさい」と言われたのです。この意味で最早、この食事は「過越の食事」ではなく、「主の晩餐」なのです。パンはキリストの体を記念するしるし、すなわちキリストを頭とする聖別された教会の交わりを意味し、杯はキリストが流してくださった罪からの贖いの血潮によって、神の民として受け入れられた契約のしるしです。
しかし、主イエスは食事中、「神の国で新しく飲むその日まで、ぶどうの実で作ったものを飲むことは決してあるまい。」と不思議なことを言われました。これはどういう意味でしょうか。イエス・キリストは世の終わりの日、この世の悪を滅ぼした後、天の父なる神が大宴会を催して下さると確かに約束してくださいました(ルカ13:29)。
しかしもうひとつ言えば、そんなに長く待たなくても神の国での食卓はすでに用意されているのです。主イエスは復活された後、幾人かの弟子たちと主の晩餐と思われる食事を共にしておられます(ヨハネ21:13、ルカ24:12)。この食事に杯は見られません。しかし、ルカ24:12の「パンを裂く」と言う表現にパンと杯のこと、すなわち主の晩餐式全体が含まれていたと見ることはうがちすぎでしょうか。使徒言行録2:42を見ると、誕生したばかりのキリストの教会が早速「パンを裂くこと」をしています。おそらくここに言う「パン裂き」はパンと杯のこと、主の晩餐式が開かれたと読み取ることができます。
わたしたちは死後、天国に行かなければ、主の晩餐に与れないのでしょうか。いいえ、「神の国」とか、「天国」と言われるところは時間的にも、距離的にもそんなに先の遠いところではありません。キリストの教会に来て、復活のキリストを信じる人であれば、誰でも今すぐにこのすばらしい食卓に着くことが許されるのです。なぜなら、イエス・キリストを罪からの救い主、復活の命の主と信じるなら、キリストはその人の内に宿り、その人は神の宮とされるからです。神の支配を受ける人はすでに神の国の一国民とされるのです。どうぞ、あなたも今すぐにイエス・キリストを救い主と信じ、受け入れてください。
最後に、主イエスはこういう望みを弟子たちに約束して、今オリーブ山に向かって行かれます。十字架の死を絶望の淵とは見ず、勝利のしるし、栄光のみ国への門口と見据えて、讃美しながら足を踏み出されました。
J・カルヴァンは、「説教なくして主の晩餐はない」と言いました。教会によっては毎主日、主の晩餐が守られていますが、わたしたちの教会では月に一回です。晩餐式が毎週であろうが、月に一回であろうが、わたしたちは、わたしたちを主の晩餐に招き、「このパンを食べなさい。これはわたしの体である。この杯を飲みなさい。これはわたしの血である」と語られた主イエス・キリストの福音が、主日礼拝ごとに語られ、聴かれなければなりません。そうでないとメシャンが言うように、礼拝、そして主の晩餐が形式化して、いつの間にか「忘れられたささげもの」となってしまうことでしょう。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
主が定めてくださった「主の晩餐」のゆえに感謝します。わたしたちはともすれば、日常の生活の中に身も心も埋没してあなたの恵み、ことに十字架の恵みを忘れてしまいがちです。しかし、今朝、イエス・キリストがくださったパン裂きのみ言葉を通して、一番大事なことを思い起こさせてくださいましたことを心から感謝いたします。
次週は礼拝の中で「主の晩餐」が予定されています。この教会のメンバー全てが一人残らずこの恵みの席からもれることがありませんように。 来るべき主の再臨の日、あなたが開いてくださる宴に、この教会のメンバーが一人ももれることが一人もありませんように。
主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン。