【主日礼拝−メッセ−ジ要約】 2004年11月14日
メッセージ:高橋淑郎牧師
「アッバ」(36節)とは、小さな子どもが呼びかける「お父さん」という意味です。父親の大きな背中に背負われながら、その父親に全幅の信頼を寄せて語りかける幼子のように、真の人であり、真の神のみ子は全き信頼を寄せて祈って言われます。「あなたは何でもおできになります」と。アッバには何でもできる力がある。だから、率直に目の前に突きつけられた杯を取り除けてほしいと一度は願います。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈りは続きます。命を削るような祈りとはこのことでしょう。ここに愛があります。
今日は「子どもを祝福する」主の日の礼拝です。仙川キリスト教会の子どもたちも、今朝ここに集められて牧師を通して一人ひとり神からの祝福を受けました。子どもが祝福を受けるということはそのご両親も、そしてご家族全員が祝福されたということです。なぜなら、幼子たちがご両親の背中に負ぶさって、自分を育ててくれる人は、自分を常に守ってくれるこの父親、母親を置いて他になく、不可能もないと信じきっている姿に、全幅の信頼を置いて天の父を「アッバ」と呼びかけて祈っておられるイエスのお姿が重なるからです。
主イエスの飲むべき杯とは、神の御心に対するこの世の無知と傲慢という罪、自分の力に頼りながら、結局睡魔に負けた弟子たちの弱さという罪、こういう人間のあらゆる罪に対する父なる神の怒りのしるしとしての十字架のことなのです。ご自分の願いを告げながら、しかし自分の思いでなく、父のお心のままに。とどこまでも従順を貫いて、結局あの苦い杯(十字架の死)を飲み干してくださいました。こうしてわたしたちの罪は赦されたのです。ここに神の愛があります。
メッセージ:高橋淑郎牧師
主の晩餐の後、讃美の歌を唱和しながら、主イエスは弟子たちを伴って二階座敷を後にされました。そして道すがら、主は彼らが自分を捨てて逃げ去り、自分のことを知らないというであろうと予告されました。これに対して弟子たちは、「自分たちはどんなことがあってもあなたから離れることはない」と力説したことは先週ご一緒に読んだ通りです。こうして一同はゲッセマネ(油しぼり)という所に到着しました。この場所がどこにあったのか、今日正確に言い当てることのできる人はいません。ただ、そこはオリーブ山の一角にあり、オリーブを搾(しぼ)る設備があったことからそう呼ばれていたものと思われます。
ゲッセマネの園は、地元の農夫にとって、ただのオリーブ加工場に過ぎませんが、主イエスにとって、そこは祈りの場としてしばしば利用しておられた聖なる場です。今もそこで祈られるのですが、この夜の祈りは特別の内容を持つものです。ここでわたしたちが驚くのは、イエスはひどく恐れてもだえ始め、死ぬばかりに悲しまれたという箇所を読んだときです。特に、口語訳聖書に、「恐れおののき、また悩みはじめて」と訳されているところを、わたしたちの読んでいる聖書には、「ひどく恐れてもだえ始め」と、そのときのイエスのお心がどれほどのものであったかをわたしたちに詳しく伝えていることです。「もだえる」と訳されていますが、厳密には、「捨てられる」という意味だそうです。誰に捨てられたのか。人々から見捨てられたのです。天父から差し出された苦しみの杯を前にして、誰か一人くらいそばにいてくれるかと思って見回しても、誰一人いないのです。まさに旧約聖書が預言しているように、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」たのです(イザヤ53:3)。主の晩餐の杯は、それを受けるわたしたちにとって罪の赦しと清めに与るしるしであると共に、主イエス・キリスト共に、十字架を担う契約のしるしでもあるのですが、十字架に死ぬことは主イエスにしかできない贖いの御業なのです。だからこの十字架という苦い杯を前にして、孤立無援の中で身もだえしながら地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみのときが自分から過ぎ去るようにと祈られました。イエスは十字架刑を蚊がとまったほどにしか感じないスーパーマンではなく、肉体的には平凡な一人の人間、それゆえに神の助けと祈りの友を必要とする生身の人間としてこの世に来られたのです。十字架刑がどんなに苦しいものかを知っている者のもだえです。同時に罪を知らない方が、罪びとと同じ刑を受けなければならない、そこに苦しみが倍にも三倍にも、それ以上にもなるのです。
「アッバ」とは、小さな子どもが呼びかける「お父ちゃま」という意味です。わたしたちは神に祈るときにも格好をつけて、何かしゃれた呼び方をしなければならないのではと思いがちですが、30歳を超えた大人のイエスは、いま格好も何もなく、「アッバ」と幼い言葉で神に呼びかけてお祈りになります。父親の大きな背中に背負われながら、全幅の信頼を寄せて語りかける幼子のように、真の人であり、真の神のみ子は全き信頼を寄せて祈って言われます。「あなたは何でもおできになります」と。アッバには何でもできる力がある。だから、率直に目の前に突きつけられた杯を取り除けてほしいと一度は願います。「しかし」と祈りは続きます。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と。ルカによる福音書によると、このときイエスの額には血の滴りのような汗が流れ落ちていたのです。日本流に言うなら脂汗がたらりたらりと滴り落ちていました。命を削るような祈りとはこのことでしょう。
今日は「子どもを祝福する」主の日の礼拝です。仙川キリスト教会の子どもたちも、今朝ここに集められて牧師を通して一人ひとり神からの祝福を受けました。子どもが祝福を受けるということはそのご両親も、そしてご家族全員が祝福されたということです。なぜなら、主のみ前にある幼子たちがご両親の背中に負ぶさって、自分を育ててくれる人は、自分を常に守ってくれるこの父親、母親を置いて他になく、不可能もないと信じきっている姿に、全幅の信頼を置いて天の父を「アッバ」と呼びかけて祈っておられるイエスのお姿が重なるからです。
イエスは、「アッバ」と呼べるお方に、ご自分の願いを告げながら、しかし自分の思いではなく、父のお心のままに。とどこまでも従順を貫いて、あの苦い杯(十字架の死)を飲み干してくださいました。こうしてわたしたちの罪は赦されたのです。この方こそわたしたちの救い主です。
一方弟子たちは何をしていたのでしょう。イエスがいよいよ切なる祈りを重ねているのと反対に弟子たちのまぶたは次第に重くなっています。イエスが二度、三度と戻ってくると、彼らは眠りに落ちていました。34節では目を覚ましてわたしを力づけてほしいと言われたようにも読めますが、38節では、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と逆に励ましてくださいます。「心は燃えても、肉体は弱い」と主は言われます。睡魔と闘うのが精一杯の弟子たちの心が本当に燃えていたのでしょうか。それとも実際にはそうでないのに、イエスの思いやりの言葉なのでしょうか。いいえ、彼らの心は確かに燃えていたのです。「心ははやっているが、肉体が弱い」と訳されている聖書があります。ほかの聖書には、「心は確かに備えているが、・・・」と訳されています。また、「心は熱望しているが、・・・」と訳されているものもあります。ルカによる福音書は、「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」(22:45)とその場の状況をより詳しく伝えています。彼らはただ深まる夜のしじまに眠りを貪っていたのではありません。彼らは彼らなりに何か次に起こることのために備えていたのです。しかし、5分10分、30分と時間が経つうちに一日の疲れがどっと出て、次第に眠気を催すようになりました。こんなことでどうする、と自分に言い聞かせるのですが、どうにも眠くって仕方がない。そしてとうとう彼らは自分の意志の弱さを悲しみながら寝入ってしまった、こういうことではないでしょうか。
主イエスのみ前に差し出された杯とは、神の御心に対するこの世の無知と傲慢という罪、自分の力に頼りながら、結局睡魔に負けた弟子たちの弱さという罪、こういう人間のあらゆる罪に対する天の父なる神の怒りのしるしとしての十字架のことなのです。この苦しみの杯を罪びとに代わって受けることによって、わたしたちを神の怒りから解き放ってくださった救い主イエス・キリストの神への従順、罪びとに対する憐れみがここに集約されているのです。ここに愛があります。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
神の怒りを受けて当然のわたしたち罪びとではなく、このわたしたちに代わって苦しみの杯を飲ませるために、み子イエス・キリストをこの地上にお遣わしくださった恵みを深く感謝します。み子イエスがこれほど熱心に輪つぃたちの罪をとりなすために祈っていてくださいましたのに、わたしたちはあの弟子たちと同様に見当はずれのことのために情熱を燃やして、あなたのみ前に惰眠を貪るものでした。
今からはあなたの深い御心を思い、目を覚まして祈る者、ゲッセマネのイエス・キリストを救い主と信じる者、そしてあなたの福音を宣べ伝える者となりたいと願います。
主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。