【主日礼拝−メッセ−ジ要約】 2004年11月21日
最近起きた大きな出来事の中で、考え込んでしまった2つの出来事がありました。
一つは、イラクで亡くなったクリスチャンでもあった香田証生さんの死−。もう一つは、中越地震で崖崩れの中から、奇跡的に救出された皆川優太君のこと−。どちらの出来事も「なぜ」と考えてしまうのは、私だけではないと思います。
「なぜ、クリスチャンでもあった香田証生さんは亡くなってしまったのか」「なぜ、お母さんとお姉さんは亡くなり、皆川優太君だけが生き残ったのか」など−。明確な答が出ないことは分かっていても、考え込んでしまうのです。
よく、キリスト教は「御利益宗教ではない」と言われます。日本では約1%の人々がキリスト者であり、残り99%がキリスト者ではありません。
99%の人々の一般的な考え方は、「宗教は恐い」−。ましてや「御利益のない宗教」を信じるなんてバカみたいだと考えるのが一般的です。
確かに、世間一般の御利益という点では、キリスト教は、御利益はないかもしれない。キリスト者になったからと言って、商売が繁盛するとは限らない。
むしろ、かきいれ時の日曜日、礼拝出席のために、お店を閉める必要がある。キリスト者になったからと言って、自動的に、健康で、病気にならないかというとそんなことはない。むしろ、人間の抱える「罪」という視点があるために、罪に敏感になり、苦しむことの方が多い。楽しいことだけではない、泣いたり、悲しんだり、嘆くことの方が多いかもしれない。
現実のこの世では、キリスト者であるなしにかかわらず、私達人間の周りには、「悪」や「不条理」、「試練」の渦がこれでもか、これでもかと渦巻いているのです。
朝、新聞を開くと、「悪」や「不条理」、「試練」のオンパレードです。「拉致問題」然り、「イラク戦争」然り、「不慮の事件・事故」然り−。
「不条理」が我がもの顔で、大手を振りながら、この世を闊歩しているとさえ感じるのです。特に、最近は「なぜ不条理があるのか」とうめく暇さえ与えないぐらい、次から次に不条理の嵐が私達を襲ってきていると言ってもいいでしょう。ちょうど、今年もたくさんやってきた台風のように不条理の嵐が、これでもかこれでもかと吹き荒れている中で、私達は生きていかなければならないのです。
不条理の嵐が吹き荒れている中で、
今朝は、ヨブ記3章とマタイ27:45−50を通して、「神がいらっしゃるのに、なぜ人間は不条理に苦しむのか」
「神を信じているのに、なぜ人間は試練に会うのか」について、御言葉に聞いていきたい。
また、不条理の嵐が吹き荒れるこの地上に、「教会」があるということはどんな意味があるのかについても御言葉に聞いていきたい。
1.ヨブのうめきの背景
(1)さて、主人公ヨブは、試練の中、絶望の中で、次のように語ります。
ヨブ記3:1−19
- 1:やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、2:言った。
- 3:わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。
- 4:その日は闇となれ。神が上から顧みることなく/光もこれを輝かすな。
- 5:暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい。
- 密雲がその上に立ちこめ/昼の暗い影に脅かされよ。
- 6:闇がその夜をとらえ/その夜は年の日々に加えられず/
- 月の一日に数えられることのないように。
- 7:その夜は、はらむことなく/喜びの声もあがるな。
- <中略>
- 11:なぜ、わたしは母の胎にいるうちに/死んでしまわなかったのか。
- せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
- 12:なぜ、膝があってわたしを抱き/乳房があって乳を飲ませたのか。
- 13:それさえなければ、今は黙して伏し/憩いを得て眠りについていたであろうに。
- 1:やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、2:言った。
- 3:わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。
- 11:なぜ、わたしは母の胎にいるうちに/死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。−絶望の中にある、主人公ヨブのうめきです。
(2)ヨブが、このような「うめき」をあげざるを得ないのには、理由があります。
その理由が、ヨブ記1章、2章に記されています。すべて読むべきなのかも知れませんが、今朝は、ポイントを絞って、見ていきたい。
- @ヨブ記1:1−3
- 1:ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。
- 2:七人の息子と三人の娘を持ち、
- 3:羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。
−神を畏れ、また神から祝された主人公ヨブの姿です。
Aそこに、サタンが登場します。
サタンと神との会話です。
- 8:主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。
- 地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
- 9:サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。
- 10:あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。
- 彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。
- 11:ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。 面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
- 12:主はサタンに言われた。
- 「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。 ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。
Bそして、13節以降、ヨブに次々と試練が襲いかかります。
(a)14節〜17節:大事な財産である牛、ロバがシェバ人によって、略奪され、
羊も羊飼いも失い、さらに、ラクダをカルデア人に奪われます。
使用人も次々に殺されていきます。
(b)18節〜19節:ヨブは、さらに自分の子供を失うという試練に会います。
一人の人が、築き上げてきたものを失う「喪失体験」は、その人に心理的に、大変強い衝撃を与えます。
<事例>阪神・淡路大震災で、財産を失い、また愛する家族を失った人が、せっかく生き残ったのにもかかわらず、希望失い、自殺してしまうというケースが多くありました。「喪失体験」は、時に、自らの命を絶つほど、極めて強い衝撃を人間に与えるのです。
Cしかし、ヨブは財産や子供を失っても、神への信仰は変わりませんでした。
- 20:ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。
- 21:「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。
- 主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
- 22:このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。
(3)話は、2章に続きます。
- 3:主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」
- −サタンは1度や2度の失敗には懲りません。さらに追い打ちをかけます。
- 4:サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。
- 5:手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
- 6:主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」
- 7:サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。
- −今度は、サタンによる病気攻撃です。
- しかも、いかにすさまじい皮膚病であるかが8節に書かれています。
- 8:ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。
- −そこに、ヨブの妻が登場します。
- 9:彼の妻は、/「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」 と言ったが、
- 10:ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
- このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。
(4)財産を失い、子供を失い、追い打ちをかけるように、ヨブは病気になります。
そして、先ほどお読みしました、3章のうめきへと至るのです。
- 1:やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、
−ヨブは、自分など、生まれてこなければ良かったのにと嘆きます。
(5)私は、初めて「ヨブ記」を読んだ時のことを思い出します。
この1章と2章を読み終えた後、ヨブ記は「信仰的に立派な人の物語」なんだろうと思い、ヨブが遠くの人、雲の上の人のように感じたからです。
もし、自分が、財産を失い、子供を失った時、
- 1:21「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。
- 主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
- 2:10ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、
- 神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
と、格好良く、心の底から言えるだろうかと疑問に思ったからです。
しかし、第3章1節〜3節
- 1:やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、2:言った。
- 3:わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。
を読み雲の上の人ではないかと思っていたヨブという人物が、身近な存在として感じられたのです。ヨブも一人の生身の人間だったのだと思ったからです。
2.さて、今まで、ヨブという人物に焦点を当ててきましたが、
今度は、視点を神に向けていきたいと思います。すると、いくつかの大きな疑問が起こるのです。
(1)なぜ、ヨブのような信仰深い人が苦しみに会わなければならないのか。
ヨブ記1:1、5節
- 1:ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。
- 5:この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。
- 「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。
なんと、ヨブは、子供達が心の中で犯した罪にまで気に留め、神に祈るのです。普通の親であれば「とにかく子供が元気で」とか「人様に迷惑をかけないように」と祈ったとしても、子供の心の中で犯した罪までに思いが至るでしょうか。いずれにせよ、いかにヨブが、無垢で、正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていたがわかります。
そして、だれしも「なぜヨブのように正しい人がなぜ苦しみに会わなければならないのか」とい疑問を抱くのです。
(2)さらにです−。神が、サタンの存在を認め、その活動を許しているということです。
ヨブ記2:3−7
- 3:主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。
- 地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。
- お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」
- 4:サタンは答えた。
- 「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。
- 5:手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。
- 面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
- 6:主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。
- ただし、命だけは奪うな。」
- 7:サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、
- 頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。
悪人が、サタンの攻撃を受け苦しみを受けるというのであれば、話はわかります。「ざまーみあがれ、当然の報いだ」と溜飲が下がる思いがします。
しかし、神は、サタンの存在を認め、サタンに正しい人ヨブへの攻撃を許している。
(3)サタンの存在を認め、サタンの活動を認める神様とは、本当に正しい方であるのか。
よりによって、神は無垢で信仰的に正しい人へのサタンによる攻撃をなぜ認めているのか。
この疑問は、さらに次のような疑問にもつながるのです。
@ 神がおられるのに、なぜこの地上には「悪」がはびこっているのか。
A 神がおられるのに、なぜこの地上には「不条理」があるのか。
これは、キリスト者であるなしにかかわらず、人生を歩んでいればだれしもがぶつかる問題です。
その答を求めてきたのが、人類の歴史であると言っても過言ではない。
しかし、納得のいく答えは得られない。むしろ「ない」と言ってもいいでしょう。
(4)「答がない」ということは、不条理あり、苦しみがある現実の人生に意味を見出せないということです。
「意味を見出せない」ことほど人間を苦しめるものはない。
<事例>シベリヤ抑留者−丸太転がし
「意味のないこと」「理由・根拠のないこと」をやり続けなかればならないことほど残酷なものはありません。まさに「生き地獄」です。
逆に、人間は、たとえどんな試練でも、意味が見出せれば乗り越えることができる。だからこそ、たとえ、納得できない答が得られないといことが重々分かっていても、人間は意味を求めようとするのです。
(5)古代から現代に至る哲学者や神学者達は、神がおられるのに、なぜこの地上には「悪」がはびこり、「不条理」があるのかの解答を求めてきました。
@ある神学者は「私達の知っている神は、神全体のほんの一部である」と言います。
確かに、人間は神に似せられて創造されましたが、人間は神ではない。その神の御心−考えていること−を人間は、完全に知ることはできません。
もし、人間が、神の御心を知ることができたら、人間が神となるという大きな罪を犯すことになる。だから、人間は、なぜ「悪や不条理」が存在するかは分からない、と言うのです。
Aある神学者は「悪の存在、不条理がなければ、人間は神を見ようとしない」と言います。
確かに、私達が「蝶よ花よ」と悪の存在や不条理と無縁の生活を送っていたとしたらどうしても、人間の内面にあるエゴが頭をもたげ、自分は神を必要としない、自分が世界の中心であると錯覚してしまう。絶対者の存在に目を向けるために、「悪」があり「試練」があると言うのです。
(6)確かに、
「私達は、神の御心(考えていること)を完全に知ることはできない」
「悪の存在、試練がなければ人間は神を見ようとしない」という解答は、理性的には納得できるでしょう。
でも、まさに悪に苦しみ、試練の渦中にある人に対して、そんな理性的な解答が何の役に立つというのでしょうか。
<事例>大阪池田小学校−亡くなった児童達のご両親に
「あなたたちは、今回の事件がなければ絶対者に対して目を向けなかったでしょう」「今回の事件は、あなた方にとって必要なことだったのです」
など言ったらどうでしょうか。「止めてくれ、帰ってください」です。悪や不条理に苦しみ、試練の渦中にある人に必要なのは「泣く者と共に泣く」ことです。
(7)このように、人は「原因論」では救われない。
「原因論」はむしろ人を益々苦しめてしまうのです。
原因が明確であれば、不条理や試練に耐えることができるかもしれない。では、私達はこの世のあらゆる現象の原因(原理)をどこまで把握しているでしょうか。科学が進歩すると、私達が今まで分からなかったこと病気などの原因(原理)が分かり、多くの恩恵を科学から受けることができます。すると私達は、科学(理性)で、すべてを説明できると勘違いしてしまうのです。科学は、「どのように(How)」になっているかを明確にできても、「なぜ(Why)」という問いに対しては究極的には答が出せないのです。
<事例> 将来、遺伝子レベルで病気の原因を突き止め、治療が可能となる日がすぐそこまで来ています。
「遺伝子の何番目に異常があったから病気になった」ということが分かったとしても、ではなぜ「遺伝子の何番目に異常がなければならなかったのか」ということは分からない。私達は、あらゆる現象の原因(原理)のほんの一部しかわからないのです。ましてや、科学や理性では、とうてい説明できない不条理や試練の原因を追い求めること自体、気が遠くなる作業なのです。
(8)ヨブも私達も、「神がいらっしゃるのになぜ不条理があるのか」という問いに対して、明確な答を得られないまま、不条理が支配するこの世で生きていかなければならないのです。
そして、全知全能の神の前では、私達がいかに無力であるかということを思い知らされるのです。
ところで、不条理が渦巻く中、私達と同じように不条理の中で、私達と同じように、いえ、私達以上の不条理のど真ん中で、死んで下さった方がいらっしゃいます。そのお方とは−主イエスであります。
1.マタイ27:45−50
◆イエスの死
- 45:さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
- 46:三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
- これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
- 47:そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。
- 48:そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。
- 49:ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
- 50:しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
2.確かに、主イエスの十字架ほど、正当性がなく、不条理なものはありません。
主イエスが、パリサイ人、律法学者の策略で十字架につけられました。ピラトは、主イエスが「いったいどんな悪事を働いたのか」と言いながら、自分の保身のために、主イエスが十字架につくのを許してしまいました。また、主イエスは、弟子達にも裏切られました。
3.これらのことは、人間の視点から見た「不条理」にしか過ぎません。
むしろ、それ以上に、神の子キリストが、神から見捨てられるという不条理中の方がもっと不条理なのです。これは、とても重要なことなので、よく聞いていただきたい。
主イエスの十字架が、
@パリサイ人、律法学者の策略であったこと−。Aピラトの保身のためであったこと−。
B弟子に裏切れたこと−。
は、確かに不条理と言えば不条理ですが、人間の自己中心性という罪の結果としての不条理という側面が強いのです。
4.しかし、もっと重要なことは、
十字架の出来事とは「罪なき神が、罪なき神の子を見捨てた」ということなのです。 皆さん、「神が神の子を見捨てる」ですよ。「神が、呆れ果てて罪人である人間を見捨てる」ならまだ話は分かります。しかし、「罪なき神が、罪なき神の子を見捨てる」という私達の通常の理解を超えた不条理が十字架の出来事なのです。「神が神を見捨てる」という不条理中の不条理の極みの中で、主イエスは叫ばれたのです。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
神の子イエスの十字架ほど、一番悲惨で、一番「不条理」なものはないのです。
5.さて、皆さん
神様ですら、不条理の犠牲になるほど、不条理の力は強大なのでしょうか。 神の子イエスですら、結局、不条理の力に負け、十字架上で非業の死を遂げて、「終わり」だったのでしょうか。 神の子イエスも、呆気なく不条理の力に押しつぶされ、負けてしまったのでしょうか。
6.いいえ、違います。
神の子イエスは、復活されたのです。
神の子イエスは、確かに、復活されたのです。
神の子イエスは、最悪の不条理の力を押しのけ、復活されたのです。
神の子イエスは、不条理の力に勝利されたのです。
神の子イエスが、不条理中の不条理である十字架を押しのけ、今も生きていらっしゃると信じる時に、私達にどんな不条理がふりかかっても、私達には「希望」があるのです。
7.ヨハネの黙示録によると、この世の終わりが来た時、すべての不条理、悪、苦しみは取り除かれるとあります。
ヨハネの黙示録21:4
- 3:そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
- 4:彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
世の終わりに、神を信じる者に希望があるというのも希望です。この世の終わりは近いかもしれない。私達は、いつ来るかは判らないし、ピンとこないのが正直なところです。
私達は、あの台風のごとく、不条理が大手を振って、我がもの顔で闊歩している現実の渦中を生きていかなければならないのです。
その不条理のど真ん中に、不条理に勝利され、復活された主イエスが供にいて下さる。「復活の主が供にいて下さる」と信じる時、「希望」は何か遙か彼方にあるのではなく、今まさにここに「希望」があるのです。だから、私達はヨブのように語ることができるのです。
- 1:21「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。
- 主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
先ほど『今まさにここに「希望」がある』と述べましたが、「ここ」とはどこでしょうか。
1.希望が存在する「ここ」とは、「キリストの体なる教会」です。不条理に勝利され、復活されたキリストの体なる教会に希望があるのです。
コリントの信徒への手紙一12:27
あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です。
十字架の主、復活の主を信じる者たちは、キリストの体の一部として組み込まれている。 つまり、十字架の主、復活の主を信じる者たちは、たとえ不条理の嵐が吹き荒れていても、「不条理に勝利されたキリストに結びついている」のです。
「不条理に勝利されたキリストと私が一体である」と信じる時、キリストの体なる教会が単なる頭だけの理解ではなく、実感を伴って分かるのです。
2.しかし、気をつけなければならないのは、地上の教会は不条理の渦のど真ん中にあるということです。
<事例>ちょうど台風の目の真ん中に、教会は立っているのです。
台風の目−さっきまでの嵐が嘘のように止まり、晴れ渡った青空が広がっている。 しかし、すぐ真後ろに、大嵐が待ちかまえているのです。ですから、気をつけていないと、教会も、すぐ真後ろに待ちかまえている不条理の大嵐に巻き込まれる可能性があるのです。
だから、教会に集められた私達は祈るのです。だから、教会で正しく語られた御言葉を聞き、御言葉で武装して、不条理の大嵐の中に出ていくのです。ですから、集められた一人一人が、不条理に勝利するためにも、教会生活を守る必要があるのです。
3.2000年近い教会の歴史において、教会自身が不条理の渦に巻き込まれたことは何度もありました。逆に、一時しのぎに、教会自身が不条理の渦にあえて入っていったこともあります。日本の教会もそうです。日本バプテスト連盟の諸教会も不条理の中にあります。仙川教会もまさにも、いろいろな問題を抱え、またそれらの問題を乗り越え、今ここに立っているのです。
4.確かに、地上の教会には、いろいろ問題があります。破れもあります。まさに、不条理の渦の中にあり、渦に飲み込まれ、ボロボロになっているかもしれない。
しかし、私は、教会には決して失望しません。 なぜなら、教会の頭は「不条理に勝利されたキリスト」だからです。
私は、教会には決して失望しません。なぜなら、私達一人一人が「不条理に勝利されたキリストに結びついている」と信じるからです。
そして、私達は、不条理があっても決して失望しません。なぜなら、「不条理に勝利されたキリストに結びついている」私達には、すでに「復活の命」が与えられていると信じるからです。
5.教会の頭が「不条理に勝利されたキリスト」であること。
私達一人一人が「不条理に勝利されたキリストに結びついている」と信じる時、私達は、いかなる不条理が襲って来ても、次のように告白できるのです。
1:21「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
祈ります。