【主日礼拝−メッセ−ジ要約】−待降節第二主日− 2004年12月5日
ある日、祭司イザヤの下に悲しい知らせが届きました。名君ウジヤ王の死です。悲嘆にくれた彼はしかし、王宮に駆け込むよりもまず神殿に入り、国家の行く末と民族の将来を神に祈り求めます。しかし、彼がそこで受けたビジョンは、御顔こそ見えませんが、いと高き天のみ座にいます神の臨在です。この世界を創造された神こそ、真の王、支配者、歴史の主であるということを示されたのです。この神が天の王座からイザヤに語りかけます。「あなたの罪は赦された。・・・わたしは誰を遣わすべきか。」と。イザヤは即座に「わたしを遣わしてください。」と申し出ます。これを献身と言います。しかし、預言者(伝道者)の道は平坦なものではありません。冷ややかで、心を頑なにしてメッセージを素直に聞かない人々が預言者を苦しめます。「愚かな人間は行くところまでいかないと目が覚めないからである」と神は言われます(11−13節a)。
救われる者は誰もいないのかと思うそのとき、神は「それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。」(13節b)と言われます。イスラエル民族という木がその根っこから切り取られる時がくる。しかし、神はこの根っこにわずかながら切り株という聖なる種子を残してくださるのです。この種子がもう一度地に蒔かれ、やがて芽生え、成長し、再び大木となるという約束が与えられました。
ヨハネ12:41を見てください。福音書の著者はあの時イザヤが見た幻は、イエスの栄光であったと解き明かしています。天のみ座にあって衣の裾を神殿いっぱいに広げてご臨在なさっていた方が、イスラエル及びイスラエルを通して全世界の人々の救いのために、自ら切り株となり、一粒の聖なる種子となって、天の王座からこの地上に下ってきてくださいました。これがクリスマスの意味です。
イザヤ書全巻を読んでわかることですが、イザヤはどうやら貴族の家柄で、しかも祭司階級でもあったようです。王宮にも自由に出入りできますし、いつでも国王と直に接見できる立場にありました。ある日、その青年祭司イザヤのもとに悲しい知らせが舞い込みました。名君ウジヤ王の死です。悲嘆にくれた彼はしかし、王宮に駆け込むよりもまず礼拝所に入り、国家の行く末と、民族の将来を神に祈り求めるのでした。祭司とはこうでなくてはなりません。ささやかな家庭の平和を祈ることも悪くはありません。特定のあの人この人のことをとりなして祈る姿もまた何と麗しいことでしょう。しかし、祭司とはそのような小さな単位の幸せを祈ると共に、天下国家のためにビジョンを祈り求めるという更に大きな使命をも帯びているのです。
イザヤは国民のために、隣国との友好関係のためにふさわしいお世継ぎは誰かと祈っていたかもしれません。ところがイザヤが受けたビジョンと言えば、腰を抜かさんばかりのものでした。神ご自身の臨在に触れるというとてつもない経験をしました。御顔こそ見えませんが、いと高き天のみ座にいます神の臨在です。
これにはどのような意味があるのでしょうか。真理はただ一つです。この世の王や支配者が誰であろうと、この世界とそこに住む全てのものを創造された神こそ、まことの王、支配者、そして歴史の主であるということを示されたのです。このいと高き全能の主なる神が天の王座からイザヤに親しく語りかけました。「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と。更に、「わたしは誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」と言われました。神のこの語りかけを聞いたイザヤは即座に、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と申し出ます。これを献身と言います。彼は既に祭司としてその身を神にささげていましたが、今はさらに預言者として生涯をささげる決心を言い表しました。
わたしたちが今朝示されたみ言葉の中心はこの6:1です。イザヤが与えられたビジョンとは、神は人の手で造った礼拝所におられるのではなく、天のみ座にあってわたしたちの礼拝を喜んで下さるのです。彼はこの経験を通して、もはやエルサレムの宮に閉じこもって、儀式としての礼拝、形式的な礼拝を無事にこなすことで良しとする「祭司」の殻を破って、神殿の外に出て行って、神とこの世に仕える「僕」、神の御心を世に伝える「預言者」としての新たな使命に生きる者とされたのです。
しかし、伝道者の道は口で言うほど平坦なものではありません。語れば語っただけ人々が心を開いて神からのメッセージを素直に受けるというものではないのです。むしろ実際はその反対です。冷ややかで横柄な態度の人々、心を頑なにしてメッセージを素直に聞かない人々が預言者、伝道者を苦しめます。それでも預言者としてあなたは立ち上がる覚悟ができているのか、と神は半ば脅しをかけるように言葉を続けるのです。それがこの6章後半です。イザヤは神に問います。「いつまでそういう状態が続きますか?」と。忍耐して語り続けている内に人々の心も少しずつ変化の兆しを見せるかもしれないという淡い期待をもって尋ねますが、神のお答えは全くつれないもので、「お前たちの国が戦いに敗れ、町は崩れ落ち、家々に住む人がなくなってしまうまでだ」と言われます。なんということでしょう。それでは伝道っていったい何なのでしょう。誰も耳を貸さないことが分かっているのに、それでは徒労ではありませんか。時間の無駄ではありませんか。
しかし、13節を見て下さい。人も町も徹底的に破壊され尽くして、「ああ、もう駄目だ。絶望だ。」と誰もが思うそのとき神は言われます。「しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。」と。イザヤは、ここでもう一つの幻を見せられました。この国、愛する同胞のほとんどが壊滅状態に陥るときがくる。しかし、それでも神にあって民族の再生は不可能ではないというもう一つの幻、ビジョンを彼は見せていただくことができました。イスラエル民族という木がその根っこから切り取られる時がくる。しかし、神はこの根っこにわずかながら切り株という聖なる種子を残してくださったのです。この種子がもう一度地に蒔かれ、やがて芽生え、成長し、再び大木となるという約束が与えられました。それがこの13節です。
そこで、今日与えられたもう一つのみ言葉、ヨハネ12:41を開いてください。この福音書の著者はあの時イザヤが見た幻、神から与えられたビジョンとは、イエスの栄光であったと解き明かしてくれています。天のみ座にあって衣の裾を神殿いっぱいに広げてご臨在なさっていた方が、イザヤにとって愛する同胞イスラエルのために、そしてそのイスラエルを通して全世界の人々の救いのために、自らダビデの末裔としての切り株となり、一粒の聖なる種子、一粒の麦となって、あの天の王座からこの地上に下ってきてくださいました。それは誰でしょう。ヨハネによる福音書の著者は力強く、そして喜びと讃美をもって言います。「この方こそ主なるイエス・キリストに他ならない。」と。聞くところによると、イザヤの生涯は彼の活動に横車を押す人々の抵抗に苦しむ生涯でした。イザヤだけではありません。彼の先にいた預言者も後に登場した預言者もみな迫害に苦しめられました。しかし、どの時代の預言者も皆、このときイザヤに与えられたビジョンを信じて人々に悔い改めのメッセージを説き続けました。それだけではありません。イザヤの献身を促す為に、「誰が我々に代わって行くだろうか」と言われた神は、時至って、預言者ではなく、この問題に満ちた世界のただ中にその独り子を天の王座から人の子として送り込んでくださいました。これがクリスマスの意味です。
最後にヨハネによる福音書3:16をお読みしたいと思います。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
あなたははるか昔からこの世を愛し、数多くの預言者、伝道者を遣わして、罪びとであっても悔い改めて立ち返るなら再びその罪を問わないと、救いの道を開いていてくださいましたが、この世はあなたの深い御心を悟ることができず、預言者たちに迫害を加え、命をさえ奪うという罪に罪を重ねてまいりました。
しかし、あなたはそれでも罪びとが滅びることを望まず、あなたの独り子をさえ天の王座からこの世に降し、飼い葉おけの中に人として生まれさせ、ついには十字架の上に救いの道を完成してくださいました。
わたしたちは今、あなたの深い愛のみ心を知りました。あなたを救い主と信じます。わたしがここにいます。どうか、わたしたちをあなたの弟子として世の救いのためにお遣わし下さい。
主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン。