【主日礼拝−メッセ−ジ要約】−待降節第三主日− 2004年12月12日
昔に比べて、現代社会はさまざまな情報で溢れています。時には知りたくないものまで聞かせます。見せます。しかも、その情報はどこまで信頼できるでしょうか。偽りのもの、まことしやかに捏造されたものもあります。情報が洪水のようにわたしたちの生活に押し寄せてくる時代です。一体どの情報を信じてよいのかわかりあせん。
しかし、うそ偽りに満ちたこの世の中ですが、ただ一つ、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という、この情報だけは真実であり、そのまま受け入れるに値するとパウロは言います。「神の独り子であるキリスト・イエスがこの世に来られたのは、心の清い人、慈愛に満ちた人、人格高潔な人のためではなく、そのような人種とはおおよそかけ離れた最低の人間である、このわたしを救うためであった」と彼は感慨込めて神の愛を証しているのです。
イエスも、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:32)と言っておられます。このように、今朝はクリスマスの目的を学ぶことができます。いと聖なる神、いと高き天の王座におられる神が、わたしたちと同じ人間の形をとってこの世に来られたのは、罪人を招いて悔い改めに導くためでした。
ところで、使徒パウロはどうしてこの手紙の中で、わざわざ「キリスト・イエス」と呼んでいるのでしょう。イエス・キリストというとき、イエスのご本質は神であると言い、キリスト・イエスと呼ぶとき、その神であるキリストが、人間イエスになってくださったというのです。こうして区別が分かって読むと、なるほどこの15節でパウロがどれほどの喜びと感謝のうちに神の愛を証しているか、その感動が伝わってきます。
「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」と、この手紙の差出人である使徒パウロは言います。まことにクリスマスにふさわしい言葉だと思いませんか。ところで、わたしたちは通常「イエス・キリスト」という呼び方に慣れていますが、パウロがテモテに宛てて書いた2つの手紙の中でそのように呼んでいるのは、6:3,14と第二の手紙2:8の僅か3度で、他はわざわざ逆さまに、「キリスト・イエス」と呼んでいるのです。これには何か意味があるのでしょうか。実はあるのです。しかし、そのことは後でお話しすることにします。
わたしの子どものころは新聞とラジオだけが社会のことを知る窓口でした。新聞といっても今のように何頁もあるわけではありません。社会面のことを三面記事と呼んでいましたが、せいぜい4頁程度でした。ラジオはNHK第一・第二と朝日放送、毎日放送の4つくらいだったでしょうか。映画を観に行くと、お目当てのものを上映する前に世界や国内のニュースを映像で見せてくれたことを思い出します。
現代はどうでしょうか。さまざまな情報で溢れています。時には知りたくないものまで聞かせます。見せます。しかも、その情報はどこまで信頼できるでしょうか。偽りのもの、まことしやかに捏造されたものもあります。このように、情報が洪水のようにわたしたちの生活に押し寄せてくる時代です。一体どの情報を信じてよいのかわかりません。
そうした、偽りに満ちたこの世の中ですが、ただ一つ、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という、この情報だけは真実であり、そのまま受け入れるに値するとパウロは言います。そして、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と告白しています。「神の独り子であるキリスト・イエスがこの世に来られたのは心の清い人、慈愛に満ちた人、人格高潔な人のためではなく、そのような人種とはおおよそかけ離れた最低の人間である、このわたしを救うためであった」と彼は感慨込めて神の愛を証しているのです。イエスご自身も「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:32)と言っておられます。先週の礼拝では、クリスマスの意味を学びましたが、今朝はクリスマスの目的を学ぶことができます。いと聖き神、いと高き天の王座におられる神が、わたしたちと同じ人間のかたちをとってこの世に来られたのは、罪人を招いて悔い改めに導くためでした。
ところで、使徒パウロはどうしてこの手紙では3箇所を除いてわざわざキリスト・イエスと呼んでいるのでしょう。簡単に言うと、イエス・キリストと呼ぶとき、彼は「キリストの神性」を強調し、キリストと呼ぶときには、「キリストの人性」を強調しているのです。もう少し丁寧に説明しますと、イエス・キリストというとき、「イエスのご本質は神である」と言い、キリスト・イエスと呼ぶとき、その「神であるキリストが、人間イエスになってくださった」というのです。こうして区別が分かって読むと、なるほどこの15節でパウロがどれほどの喜びと感謝のうちに神の愛を証しているか、その感動が伝わってきます。
日本ミッションというキリスト教の団体があります。この人たちは映画伝道、病院訪問、拘置所や刑務所伝道、その他さまざまな方法で諸教会に仕え、人々を近くの教会へ行くようにと勧める団体です。わたしが学んでいた神学校にもその団体から献身して学んでいる人がいました。ある日、彼から一つのカセットテープを頂きました。そこには一人の死刑囚の証が、それにかかわった神学生の声で録音されていました。冤罪でなく、正真正銘の死刑囚ですから、それ相当の事件を起こし、被害者はもちろん、家族や親類縁者の誰からも早く死んでくれと思われていたような人でした。しかし、教誨師の忍耐強い伝道が実り、イエスを救い主と信じました。それからというもの、彼の生活態度は以前と打って変わった人柄に変えられました。いよいよ処刑される朝、大恩ある教誨師にあてた手紙を書きました。それがテープに収められていたのです。
恵まれない生い立ちと不幸な少年時代は、彼の性格を次第に歪めて行き、盗みや恐喝など、ありとあらゆる犯罪に走り、刑務所を出たり入ったりを繰り返し、ついに独り住まいのお年寄りをだまし、家も土地も奪い取り、挙句の果てに殺人事件を起こしてこういう結果を招いてしまったというようなことを書いているのです。しかし、神は人生の最後に一人の伝道者を遣わし、愛と憐れみの御手を伸べ、イエス・キリストの十字架を示し、救ってくださったという喜びの証を聞くことができました。教誨師と出会ってからどれくらいの日数を与えられたのか分かりませんが、何年もというわけではなかったでしょう。短い期間なのに驚くほど、聖書の言葉をたくさん引用していました。処刑までの限られた時間ですから、いちいち聖書を開いて書き写すという余裕などなかったでしょう。全てが暗記です。しかもテープを作成した人の話では原文のままで、一切手を加えていないということでした。
遺書とも言えるその手紙は、ヨハネの黙示録21:1−4からの引用をもって結ばれていました。死刑囚から天国の証人へと変えられた兄弟の引用聖句をわたしたちも共に読みましょう。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」
祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
善人の為でなく、正しい人の為でもなく、罪人のかしらのようなどうしようもない最低の人間のわたしのために、あなたはみ子イエス・キリストをこの地上に遣わして十字架の上に救いの道を成就してくださいました。それのみか、復活の命によって永遠の命をさえ賜りました。心から感謝します。どうか、今日このみ言葉が共に礼拝をささげている一人びとりの心をも捉えてくださって、あなたを救い主と信じることができますように。主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン。