【主日礼拝−メッセ−ジ要約】−クリスマス− 2004年12月19日
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
これが今日わたしたちに与えられたクリスマスメッセージです。8節にさかのぼると、これは、天使から羊飼いたちを通して全ての民に与えられた大きな喜びのメッセージであることが分かります。貧しさゆえに野宿を余儀なくされた羊飼いを神は御心にとめて、天使を遣わし、主の栄光をもって彼らの周りを巡り照らしました。しかし、羊飼いたちはこのただならぬ光景に、自分たちは何か神の怒りにふれるようなことをしたのだろうかと考えて恐れました。
しかし、天使は神の怒りを告げに来たのではありません。それどころか、「恐れるな。」と呼びかけました。恐れさせるためではなく、民全体に与えられる大きな喜びを、誰よりも早く、先ずあなたたちに伝えるために来たのだと言います。
天使の告げる喜びのメッセージとは何でしょうか。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」と。メシアとは、わたしたちの聞きなれたギリシャ語で読むとキリストという意味です。日本語で言うと、「王」です。「王様がお生まれになった」と聴いて羊飼いたちは一瞬、「それは自分たちには縁のない世界のことだ」と、浮かしかけた腰をまた地面に下ろしたことでしょう。だが、天使のメッセージはまだ続きます。「王としてお生まれになった救い主は、家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされている。」と。王であれば、当然王宮で生まれるはずなのに、家畜小屋の、おまけに飼い葉桶の中におられると聞いて、羊飼いたちは、またまたびっくりしたことでしょう。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
これが今日わたしたちに与えられたクリスマスメッセージです。8節にさかのぼると、これは、天使から羊飼いたちを通して全ての民に与えられた大きな喜びのメッセージであることが分かります。貧しさゆえに野宿を余儀なくされた羊飼いを神は御心にとめて、天使を遣わし、主の栄光をもって彼らの周りを巡り照らしました。しかし、羊飼いたちはこのただならぬ光景に、自分たちは何か神の怒りにふれるようなことをしたのだろうかと考えて恐れました。
どこの教会堂の前に掲げられている集会案内の看板にも、「どなたも遠慮なくおいで下さい。」と書いていると思います。この仙川キリスト教会の案内看板にもそのように書いています。しかし、大抵の人は、「わたしはクリスチャンではありませんが、わたしのようなものでも礼拝に伺ってもよろしいのでしょうか。」と恐る恐るお尋ねになります。わたしたちはもちろんそうした人を前にしたとき、「遠慮などいるものですか。どうぞ、どうぞ」と会堂に入ることを促しますが、同時にある意味で神の宮に自分のようなものが入ってよいのだろうかという恐れは大事だと思います。何年も教会生活に慣れると、この最初の恐れというか、緊張感がなくなっていることに気付かされます。初心忘れるべからずと言います。
しかし、天使は神の怒りを告げに来たのではありません。それどころか、「恐れるな。」と呼びかけました。恐れさせるためではなく、民全体に与えられる大きな喜びを、誰よりも早く、先ずあなたたちに伝えるために来たのだと言います。昔も今もそうですが、牧畜を営む人にもいろいろありまして、羊も牛も山羊も数え切れないほど飼っている大企業の経営者もあれば、その経営者の下で、何匹かの家畜を世話するように雇われている人々もいます。この夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いはどうやら後者のグループに属する人々です。家族を家に残して出稼ぎをする季節労働者のようなものです。
天使の告げる喜びのメッセージとは何でしょうか。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」と。メシアとは、わたしたちの聞きなれたギリシャ語で読むとキリストという意味です。日本語で言うと、「王」です。「王様がお生まれになった」と聴いて羊飼いたちは一瞬、「それは自分たちには縁のない世界のことだ」と、浮かしかけた腰をまた地面に下ろしたことでしょう。だが、天使のメッセージはまだ続きます。「王としてお生まれになった救い主は、家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされている。」と。王であれば、当然王宮で生まれるはずなのに、家畜小屋の、おまけに飼い葉桶の中におられると聞いて、羊飼いたちは、またまたびっくりしたことでしょう。
しかも、「それが神から賜ったあなたがたへのしるしである。」と天使は言うのです。「しるし」とは、この場合証拠です。全世界のために与えられる大きな喜びの内容は救い主がお生まれになったというビッグニューズです。しかし、この方は王宮にはいません。1節を読むと、聖霊によって救い主を身ごもったマリアはこの世の絶大な権力者であるローマの皇帝アウグストの命令で、婚約者ヨセフの本籍地ベツレヘムで登録するためにはナザレから旅に出かけています。6節を見ると、ようやくベツレヘムに着いたものの、役所はすぐに受け付けてはくれません。仕方なく待機する間、宿を探しますが、もうどこも満員で彼らを泊める余地はありません。そうこうするうちに陣痛が始まりました。ヨセフは何とか頼み込んで家畜小屋を借りることができましたが、その晩、神が旧約の時代から約束しておられた救い主が生まれたのです。赤ちゃんを寝かせるところとして何があるかというと、飼い葉桶でした。これが救い主降誕のしるしなのです。
ここでいくつかのことを考えさせられます。第一に、羊飼いはあまりに貧しく、敬虔なユダヤ教の国に生まれながら、礼拝に行くことも許されないほどでした。しかし、彼らは毎夜天を仰ぎ、星空を見ながら、天地の創造者である神への恐れを抱いていました。では他のユダヤ人はどうだったでしょうか。自分の罪と汚れを恥じるほど神への恐れを抱いていたでしょうか。その気にさえなれば、安息日にはいつでも礼拝をささげることのできている恵みを忘れて、どこか慣れっこになっている部分はなかったでしょうか。わたしたちも今一度襟を正されるみ言葉です。
第二に、救い主の母として選ばれたマリアと婚約者ヨセフのことを考えましょう。彼らは地上の権力者の欲望に振り回されて、ことにマリアは大きなお腹を抱えて旅に出なければなりませんでした。よやくベツレヘムについても旅の疲れを癒す場も与えられず、その上何と悲しいことに家畜小屋でお産をしなければならなかったのです。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」です。あまりにも痛々しいです。しかしこのことで考えさせられることがあります。
わたしたちは、わたしたちの魂の客間に救い主をお迎えする余地があるでしょうか。すでにこの世のお付き合い、家庭、名誉心、地位、財産、趣味などという先客、即ち自分のための人生計画で満杯になっているために、救い主を閉め出してしまっているのではないでしょうか。
しかしここでもう一度天使の告げた神からのメッセージを注意深く読みましょう。救い主のご降誕は全ての人に喜びをもたらして下さいます。先ず権力者の欲望に振り回されたマリアとヨセフ、一番弱い立場の彼らの手に、神は幼子キリストを委ねてくださいました。
次に貧しさと差別に打ちひしがれていた羊飼いに、世界最初のクリスマスの喜びをお与えになりました。それだけではありません。彼らはクリスマスの喜びを受けた後、この喜びを自分だけのものにしないで、他の人々にも伝えました。24日はクリスマス燭火礼拝、イブ礼拝です。礼拝の後、家々をめぐり、駅前に出て行ってキャロリングをします。それはこの羊飼いに倣って、クリスマスの喜びを自分たちだけのものにしないで、町の人々にも共有してもらうためです。
町に出て行くと、いろいろな人がいます。その大方の人はこの世のさまざまな誘惑と欲望のために救い主を締め出している人々です。かつてのわたしたちのように、その魂は家畜小屋の飼い葉桶にもまさって罪に汚れてしまっていることでしょう。しかし、わたしたちがこの喜びの知らせを携えてゆくことによって、彼らの魂にも救い主は祝福のうちに宿ってくださることでしょう。
皆さんの目の前に、今朝は少し大きめの聖書を置いた机が見えます。その机の正面にギリシャ文字で、「アルファ」と「オメガ」と記されているのが見えるでしょう。英語の単語で言えば、AとZです。これは単なる飾りではありません。この教会の信仰告白なのです。イエス・キリストは、「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者である。」(ヨハネの黙示録22:13)と言われました。イエス・キリストは人間の形をとってこの世にお生まれになり、人々の罪の身代わりとして十字架に死なれましたが、三日目に復活されました。イエス・キリストは今も生きておられます。そして彼に頼る全ての人を十字架の血潮によって救ってくださいます。彼はキリスト、王だからです。そのご本質が神だからです。彼だけが永遠に最初の者であり、永遠に最後の者だからです。
クリスマスおめでとうございます。そして、感謝のうちに祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。
わたしたちがかつてそうであったように、多くの人々はあなたが何のためにこの世に生まれて下さったかを知りません。しかし、最初の者にして、最後の者である主よ、あなたは確かにあのベツレヘムの一角にお生まれくださいました。そして今もあなたを求める全ての魂の飼い葉桶に生まれてくださいます。そしてそこを清めてあなたを喜ぶ者とし、更にはあなたの喜びとなる神の宮としてくださいます。クリスマスを心から感謝します。 イエス・キリストの尊い御名によって。アーメン。