【主日礼拝−メッセ−ジ要約】−年末感謝− 2004年12月26日
わたしたちがここに来て礼拝をささげるのには確かな希望があるからです。それが今朝与えられた二つ目の、「すぐに来る」という約束の御言(一度目はクリスマスの希望)です。この二度目のアドゥヴェントを「イエス・キリストの再臨」といいます。ヨハネの黙示録22章は、やがてわたしたちが招き入れられる天の御国の光景です。神の都とは天上に導かれた教会の姿です。水晶のように輝く命の水の川とは神の聖き霊、即ち聖霊です。地上にあって信仰の戦いを終えたキリスト者のために、全ての病や傷を癒す木の葉がいつでも備えられており、いつ御国に招き入れられても養うに十分な木の実が用意されています。その額には、「イエス・キリストは主である」という信仰告白を象徴する神の名が記されたキリスト者は、世の光であるキリストが御国においても彼らを照らしますから、迷うことなく、暗闇がないので躓くこともなく、永遠の神に近づき、世々限りなく栄光の神を礼拝することができるのです。しかも天使はわたしたちに言います。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。」と。預言者たちの霊感とは、神がかった霊媒師という意味ではありません。神の霊感を得て書かれた「聖書」です。聖書はこの世に幾千万とある書籍とは全く異質なものです。これは作り話の集大成でも、お伽話集でもありません。信頼でき、また真実なものです。この世にあって人生を照らす灯火であり、御国への道を照らす永遠の光です。この信頼すべき真実な聖書が神のみ言葉を伝えます。「見よ、わたしはすぐに来る。」と。
わたしたちはクリスマスの喜びを頂きました。感謝しましょう。更に来るべき永遠の御国への希望を見出しました。讃美しましょう。皆さん一人ひとりが新しい年も主イエス・キリストの父なる神と共にあり、平和と祝福に満ちたものとなりますように。
ボンヘッファーという牧師の著書の中に、「十誡には、働きなさいという命令は含まれていない。仕事を止めて休め、という戒めが含まれている。それは普段、われわれが慣れ親しんでいる発想を転換することに他ならない。」という一文があります(「信じつつ 祈りつつ」短章366日−新教出版社 小池創造訳 より)。
2004年最後の主の日にふさわしい言葉です。勤勉に働くということはよいことですが、神は聖書の中で、一週の間に一日休むこと、また時折まとまった休みをとることを奨励しておられます。心身に休息を与えることによって、人間は創造主を思い起こし、感謝と礼拝をささげることができるように造られているのです。「忙しい」という文字は心を亡ぼすと書きますが、更にいえば、旧約聖書コヘレトの言葉3:11(口語訳、新改訳その他の聖書では「伝道〈者〉の書」)の、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」というみ言葉に逆行するという警告でもあるのです。仕事が忙しい、日常生活が忙しいという言葉は、一見魅力的で、人々の尊敬を集めますが、神は悲しんでおられます。なぜなら、「永遠なる神を思う心が滅ぼされ」つつある、非常に危険なことだからです。その意味で、日本にはこの年末年始にかけて若干の休息をとる時間が与えられる習慣があることは幸いです。この機会に心身を十分に休ませ、同時に永遠なる神、天と地とその中に住むすべての命を創造された神を思い、この神に先ず感謝と讃美の礼拝をささげるときを持つことは大切なことです。
さて、2004年を象徴する言葉をひとことで言い表すとして何が相応しいかというアンケートの結果、「災」が選ばれました。まことに言い得て妙であります。海外でも国内でも人々は等しく災いの中にあります。このような時、人々の心を本当に癒してくれるものは何といっても神の言葉以外にありません。それでわたしは、この年のために、そして新しい年のためにどのような御言が人々の心を癒し、また教会を勇気付けてくれるであろうかと数ヶ月前から聖書を読み返していましたが、「わたしはすぐに来る」という御言が与えられました。これをカタカナで言うと、「アドゥヴェント」です。「アドゥヴェント」とは、「来臨」という意味です。神が来られるという約束を意味します。聖書は旧約聖書の創世記から新約聖書のヨハネの黙示録まで66巻ありますが、その主題は、「イエス・キリストの来臨」と言い表すことができます。わたしたちの教会では12日に子どもたちと一緒に、19日には全ての人々と共にクリスマスを祝い、24日には心静かにキャンドルのともし火の中で、世の光であるイエス・キリストのご降誕を喜び迎える礼拝をささげました。
4世紀ごろ、小アジアのリュキアで活動した聖ニコラウスという神父さんが貧しい娘のために、彼女の家の窓から金貨を投げ入れたとき、たまたまそれが靴下の中に入ったことから世界の子どもたちは12月24日の夜、靴下を用意して眠りにつく習慣ができました。皆さんの靴下には何が入っていましたか。どのような贈り物が届けられていましたか。中には、何も入っていなかったとがっかりしている人がいるかもしれません。でも、がっかりしないで下さい。24日のイヴ礼拝において、神様はそんなあなたにも最高の贈り物を下さったというメッセージを、篠原健治兄弟を通してお聴きになったはずです。思い出したでしょう?そうです。イエス・キリストです。「アドゥヴェント、わたしはすぐに来る」という約束通り、今から約2000年前に神は来臨してくださいました。この方こそ主なるイエス・キリストです。クリスマスとは、「すぐに来る」と約束された方がその約束を果たしてくださった証なのです。だからめでたいのです。
先日、妻の斐子が教会学校の子どもからイエスさまが今も目に見える人間イエスとしてこの地上に生きておられたら何歳になるの?と質問されたそうですが、イエスさまはおおよそ2000歳、少し理屈っぽく答えるなら約2004歳ということになります。もっと理屈っぽく答えるなら、世界の始まるずっと前から生きておられると答えるしかありません。
ではこのイエスさまは一体、何のためにこの世に来てくださったのでしょうか。一人ひとりの人生に意味があることを教えるためです。悲しんでいる人に慰めを与えるためです。苦しみの中にある人に癒しを与えるためです。絶望しかかっている人に希望をもたらすためです。取り返しのつかない罪を犯した人に、悔い改めの機会と救いの道を開くためです。使徒ペトロは聖書の中でイエス・キリストについて、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられたていないのです。」と証言しています(使徒言行録4:12)。そうです。この方だけが慰めと癒しと希望と救いの主なのです。イエス・キリストこそ、その生涯を通して人々に仕え、わたしたちの罪を取り去り、十字架の上に救いを成就してくださいました。そしてこのイエスに出会える道は、この地上にはキリストの教会を除いて他にはありません。わたしたちが毎週この会堂に来て礼拝をささげるのは、この方によって愛され、救いの希望を頂くことができたことを感謝しているからです。
しかし、聖書はまた使徒パウロを通して言います。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めなものです。」(气Rリント15:19)と。わたしたちはこの地上に永遠に生きていられるわけではありません。神を信じない者、イエス・キリストのみ前に罪を言い表さず、悔い改めもしない罪人と同じ生涯の終わりを迎えるのであれば、これほど馬鹿げたこと、惨めな人生はありません。
わたしたちがここに来て礼拝をささげるのには確かな希望があるからです。それが今朝与えられた二つ目の、「すぐに来る」という約束の御言(一度目はクリスマスの希望)です。この二度目のアドゥヴェントを「イエス・キリストの再臨」といいます。ヨハネの黙示録22章は、やがてわたしたちが招き入れられる天の御国の光景です。神の都とは天上に導かれた教会の姿です。水晶のように輝く命の水の川とは神の聖き霊、即ち聖霊です。地上にあって信仰の戦いを終えたキリスト者のために、全ての病や傷を癒す木の葉がいつでも備えられており、いつ御国に招き入れられても養うに十分な木の実が用意されています。その額には、「イエス・キリストは主である」という信仰告白を象徴する神の名が記されたキリスト者は、世の光であるキリストが御国においても彼らを照らしますから、迷うことなく、暗闇がないので躓くこともなく、永遠の神に近づき、世々限りなく栄光の神を礼拝することができるのです。しかも天使はわたしたちに言います。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。」と。預言者たちの霊感とは、神がかった霊媒師という意味ではありません。神の霊感を得て書かれた「聖書」です。聖書はこの世に幾千万とある書籍とは全く異質なものです。これは作り話の集大成でも、お伽話集でもありません。信頼でき、また真実なものです。この世にあって人生を照らす灯火であり、御国への道を照らす永遠の光です。この信頼すべき真実な聖書が神のみ言葉を伝えます。「見よ、わたしはすぐに来る。」と。
わたしたちはクリスマスの喜びを頂きました。感謝しましょう。更に来るべき永遠の御国への希望を見出しました。讃美しましょう。皆さん一人ひとりが新しい年も主イエス・キリストの父なる神と共にあり、平和と祝福に満ちたものとなりますように。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。
あなたは天地創造の初めから、しかも罪に堕ちたアダムとエヴァにさえ、「わたしはすぐに来る」と約束して、クリスマスの希望を与え、果たしてイエス・キリストを通してその約束を成就して下さいました。更に、天地が過ぎ去っても永遠に滅びることのない御国への招待状をキリストの教会であるわたしたちに、与えてくださいました。心から感謝します。どうか、この二つとない大いなる恵みの席に、この教会のメンバー全てを、客員キリスト者の全てを、求道者の全てを、この町に住む全ての人々を導いて下さいますよう、イエス・キリストの尊い御名によって。アーメン。