この箇所は、パウロの第一回異邦人伝道旅行完結の記録です。パウロとバルナバにとって、それは多くの苦しみと危険が伴うものでした。にもかかわらず、伝道報告会での第一声は、「神が自分たちと共にいてしてくださった」数々の恵みに対する感謝と、二つ目に、「神が異邦人に信仰の門を開いてくださった」という喜びの証です。
しかし、目に見えない神が、「自分たちと共にいて下さった。」と、どうして言い切ることができたのでしょう。その確信は、迫害に絶える力を賜ったこと、石打ちのリンチを受けながら生かされたという実体験だけではありません。むしろ、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Tコリント1:18)とパウロが言うように、迫害を受けながら、無力に見えるその弱さの中で、ただ一点、十字架の言葉を語り続けさせて下さったこと、それによって彼らの心が開かれ、救われていった事実を見させていただいたことによるのです。
今日の聖書テキストを通して、主なる神はあなたに何を告げておられるのでしょうか。それは、2千年前にパウロ、バルナバと共にいてくださった主、彼らの語る福音に耳を傾けて救われた異邦人たちと共にいてくださった主は、今も生きて、今日この礼拝をささげているあなたと共にいてくださっているという嬉しい事実です。
あなたもさまざまなストレスと、人に言えない数々の罪の重荷に苦しむ人生の旅路にあるのではないでしょうか。神は愛の方です。今は恵みのときです。イエス・キリストはあなたの数え切れない罪と、心の重荷を十字架上に引き受けて死んで甦られた救い主なのです。神はあなたと共におられるのです。今、あなたがイエス・キリストを救い主と信じるなら、あなたの人生は勝利の人生に変えられるのです。
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二つ目に、パウロとバルナバは言いました。「神が異邦人に信仰の門を開いてくださった」と。ユダヤ人とユダヤ人にそそのかされた現地の人々の妨害と迫害の中でよく耐えることができたのは、「神が自分たちと共にいてくださった」という確信があったからです。しかし、目に見えない神が、「自分たちと共にいて下さった。」と、どうして言い切ることができたのでしょうか。迫害に絶える力を賜ったこと、特に石打ちのリンチを受けながら奇跡的に生かされたという実体験だけではありません。むしろ、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Tコリント1:18)とパウロが言うように迫害を受けながら、一見無力に見えるその弱さの中で、ただ一点、十字架の言葉を語り続けさせて下さったこと、それによって人々の心が開かれ、救われていった事実を見させていただいたことによるのです。
今日の聖書テキストを通して、主なる神はあなたに何を告げておられるのでしょうか。それは、2千年前にパウロ、バルナバと共にいてくださった主、彼らの語る福音に耳を傾けて救われた異邦人たちと共にいてくださった主は、今も生きて、今日この礼拝をささげているあなたと共にいてくださっているという嬉しい事実です。
あなたもさまざまなストレスと、人に言えない数々の罪の重荷に苦しむ人生旅路にあるのではないでしょうか。神は愛です。今は恵みのときです。神の独り子イエス・キリストはあなたの数え切れない罪と、人生の重荷を全て引き受けて、十字架の上で、わたしたちのために罪に死に、そして甦られた救い主なのです。神はあなたと共におられるのです。今、あなたがイエス・キリストを救い主と信じるなら、あなたの人生は勝利の人生に変えられるのです。 祈ります。
天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。
聖書は主イエスを「インマヌエル」(神我らと共にいます)と呼びましたが、パウロとバルナバの伝道旅行の出来事はそれを裏付けるものでした。パウロはアンティオキア教会の人々に、「神が自分たちと共にいてくださったので、福音を聴いた人々の心に信仰が宿った」と喜びをもって証をしました。
そしてあなたは今朝、この証を通してわたしたちの心にも確かなメッセージとして伝えてくださっています。わたしたちもこの世でストレスを一杯抱えながら、人生の旅路にあります。一方で人知れず罪に罪を重ねる毎日です。しかし、あなたはその独り子イエス・キリストを十字架に渡し、わたしたちの罪の身代わりとしてくださいました。それによってわたしたちの数々の罪は清められました。また御子が甦られたことによって、わたしたちは救われ、死の恐怖から解放されて永遠の命を与えられました。今わたしたちは悔い改めて、主イエス・キリストを救い主と信じます。そして、地上に生かされている限り、あなたと共にある喜びと感謝をもって、あなたに仕え、教会に仕えてまいります。
わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。