【主日礼拝 】 召天者記念礼拝 2012年11月18日
愛する人を亡くしたとき「命」というものを深く考えさせられます。よく、死を口にすることは縁起が悪いと言われますが、実は死を考えることは命を考えることなのです。
命を知ることによって死の考え方が変わります。
命は尊いものである事は誰もが知っていることです。なぜ、命は尊いものなのでしょうか、それは神様から与えられているからです。命が偶然にボウフラのように湧いて出てきたものなら命が尊いなどとは言いません。命が与えられたものならば、私は偶然にこの世に出てきたのではなく、たまたま生きているのでもなく、偶然に死んでいくのでもありません。今日も意味があって生かされていることを知るのです。そして、私たちの命の帰るところはお墓ではなく、神様のもとに帰るのです。
私たちを生かす命とは何でしょうか。
命は寿命のことではありません。命とは喜びであり、感謝であり、私たちを生かすものであります。「イエスは言われた。わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて信じる者はだれでも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25−26)。「わたしが命のパンである」(ヨハネ6:35)。イエス様が私たちの命の源となり人生を生かしてくださるのです。更に「わたしはあなたたちを老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3−4)。イエス様は、私たちがどのような状況の中にあっても、私たちを忘れることなく、見捨てることなく、背負って下さるのです。
あなたの心には、この希望がありますか。命が宿っていますか。もし、今晩死ぬとしたら、あなたは天国に行けますか、あなたの心の中に天国の希望がありますか。パウロは「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか、死よ、お前のとげはどこにあるのか」(コリント(一)15:55)。と言いました。もはや死は私たちを支配することはありません。キリストを私の罪の救い主と信じるならば、この勝利は私たちにもたらされます。このことを信じる者は、この世にあっても幸いな人です。
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