【主日礼拝 】 2013年3月3日
主イエスは「わたしが去っていかなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りをあきらかにする」(7−8)。
罪について、真理の霊が来ると罪について明らかにされる。「罪についてとは、わたしを信じないこと」(9)。罪とは、神が私たちの罪の救いのために、この世に救い主イエスを遣わされた。その主イエスを救い主と認めず信じないこと。聖書の『罪』とは的外れという意味です。神から遣わされた救い主に目を向けることもせず、主イエスを救い主として認めないことが『罪』なのです。
義について、私たち人間は自分が一番正しいと思っているところがあります。聖書ははっきりと、そうではないと言います。神様だけが義なるお方、完全に正しいお方、すべてのものの判断基準になられるお方。そして、この義なる神に受け入れられる事によって人間は正しい者(義)とされるのです。私は正しい人間だ。そんな自己満足の世界ではありません。神様との正しい関係になるとき、私たちは義とされるのです。
裁きについて、私たちが考える裁きとは罪に定められた人間を罰する事です。しかし、真理の霊が教える裁きとは罪と死の力によってこの世を支配していた悪魔が主イエスの十字架によって打ち砕かれることです。人は罪責感から自分は裁かれてもしかたがないと考えたりします。しかし、裁かれるべき存在は別にあるのです。私たちに悪意を抱かせ、思い煩いの中に縛り続けている悪魔こそが裁かれるべきなのです。
聖霊によって世の誤りが明らかにされた。主イエスを罪ある者と定め十字架につけた。自分たちは正しい事をしていると信じて主イエスを裁いた。しかし、そこに真理はありませんでした。実はその背後で主イエスが聖書の預言通り、計画に従って十字架についた。その事を通して、救い主である主イエスを受けいれない事が罪であり、主イエスを受け入れる事が義と認められる。この見えない世界で起こったことこそが実は真理だったのです。
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