【主日礼拝 】                                 2013年6月9日 

 『苦難を乗り越えた喜び』 

テモテへの手紙(二)3章10-16節

山岸 明牧師

 私たちの人生に起こる混乱と悩み、悲劇と涙、病気や悲しみなど、我が人生に全く意味の無いものに思われる、故に、私たちは困難を避けて生きようとするが、どの道を進んでも、困難は人生の上に起こる、これが人生であります。しかし、人生の全てではありません。私たちには信仰があります。信仰によって苦難を乗り越えて行く。聖書はいつもそのことを私たちに教えています。

 聖書には信仰の先輩たちが試練の時、悲劇のとき、涙のとき、信仰によってそれを乗り越えてきたことが赤裸々に記されています。パウロは「アンティオキオ、イコニオン、リストラでわたしたちにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです」(11)と伝えています。パウロは人生に起こる苦難を通して次のように告白しました。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたはこれを忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。」(ヘブライ12:5−7)。

 ある人は、『人生には耐えがたい苦しみを通してしか、手にいれることのできない祝福がある』と言いました。ある人は『過ぎ去っていくこの世に愛着を持ちすぎることのないように、神様はときとして受け入れがたい体験をお与えになることがある』と言いました。私たちは、できることならば苦しみに会いたくはありません。そう考えるのは人間として当然のことです。しかし、人生は良い事にも悪い事にも遭遇するのです。生きている限り悩みや苦しみは絶え間なく続くのです。信仰は人生を楽にしてくれるものではなく、人生を意味あるものにしてくださるのです。だからこそ、私たちは、人生における苦難の意味をしっかりと考えておく必要があるのです。


 
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