【主日礼拝 】 2013年7月14日
「イエスがガリラヤ瑚に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」(1)。多くの人たちがイエス様の周りに集まるなか、ペトロは一生懸命に漁で使う“綱”を洗っていた。ペトロにとって、神の言葉を聞くよりも、魚一匹獲るほうが大事だったのです。神の言葉に背を向けていたペテロが、どうして信仰に入り、イエス様の弟子になっていったのでしょうか。イエス様はペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4)と仰せられた。ペトロは「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って網を降ろすと、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」(5-6)。
ペトロは言った「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。それは、私たちが窮地に陥ったとき、繰り返し口に出す言葉、私は精一杯努力したが、やっぱり駄目だった。私はいま壁にぶつかり前に進めない。もう駄目です。しかし、ペトロは、それで終わりませんでした。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。自分のこれまでの知識、経験、自分の考えや立場に固執する声ではなく、イエス様の声に身を委ねる決断の言葉です。
その時ペトロは、神の恵みに与る事が出来た。それは単に多くの魚を得ただけではなく、イエス様の足もとにひれ伏して告白した。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(8)。神に従って生きようとするとき、初めて自分が罪深い者であり、不従順な者であるかが見えるのです。ひれ伏したペトロに「恐れることはない」(10)と仰せられた。神の前に顔を上げることも出来ない罪人の私に「顔をあげて歩みなさい」と仰せられるのです。更に「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10)。イエス様に捕らえられた者が、今度は人間を捕える者にされた。世に支配されない生き方は、主の御言葉を自分への言葉として受け入れ「お言葉ですから」と言って従うところから始まるのです。
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