【主日礼拝 】 2013年7月21日
教会に集う私たちは、主の恵みに感謝し、信仰生活を第一にしたいと願います。それはとても素晴らしことです。しかし、信仰が宗教になっていくと色々と問題が出て来て、自分をも周りをも苦しめることになります。
「ある安息日に弟子たちが麦を摘んで食べた」(1)。「ある安息日にはイエス様が手の萎えた人を癒された」(6)。このことが大問題になったのです。ファリサイ派の人たちは「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」(2)。モーセが神様から与えられた十戒の第2章に「安息日を心にとめ、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト記20:8)とある。イエス様と弟子たちはこの安息日の掟を破ったのです。
しかし、本来の安息日とは、神様が天地万物を創造し全ての良い物を造られ7日目に休まれた。この恵みを味わい、御心を深く知って、神様に愛されていることを覚え感謝し、その恵みに自ら応えて、神様からの憐れみをもって人を憐れむ日です。ですからイエス様の病人を癒された事は、この安息日にふさわしい出来事でした。
私たちも気をつけないと、キリスト教という宗教を守ることが第一の目的になってしまい、神様よりも厳格になってしまうことがないでしょうか。律法は神様と人を愛することが目的である事を忘れていませんか?律法は、人間の幸いのために与えられたものです。律法を守る事自体が目的ではなく、人々が幸いな生活を送ることが神様の本来の願いです「律法全体は隣人を自分のように愛しなさい、という一句によって全うされるからです」(ガラテヤ5:14)。信仰が宗教に替わると、神様という言葉は使われていても、現実は神様不在で、行事・儀式・教え・掟だけが先行し、形式化してしまうのです。信仰は人を生かすが、宗教は人を縛り苦しめます。信仰第一を優先するとは「神様を愛し、隣人を自分のように愛すること。」日々の生活の中で実践していきましょう。