【主日礼拝 】                                    2013年8月25日 

 『愛は痛みをともなう』 

ルカによる福音書10章25-37節

山岸 明牧師

 
 『善きサマリア人』の“たとえ”を聞くとクリスチャンの模範のように思います。それが本来あるべき姿なのかも知れません。クリスチャンは、あのサマリヤ人のようにあるべきだ。困っている人を助けてやらなければ、弱っている人のために何かをしてあげるべきだ、しかし、その反面、そのように生きていない自分を見て、自分は駄目な人間だ。駄目なクリスチャンだと自分を責めて、不安になることもあります。現実に私たちは愛の人ではありませんし、愛の人になれない悩みも持っています。隣人を愛しなさいと言われても、愛せない自分がいるのです。

 律法の専門家は、自分の側だけにいて、愛することの出来る者だけを愛していった。それに対してサマリア人は、自分の側を出て、自分の持っているものを差し出して、人を愛していった。主イエスは、そこに本当の隣り人を愛する愛があると仰せられた。隣人を愛するとは自分の側を出て行くこと、そこには痛みが伴う。自分の側に入れば、そこは安全地帯、傷つく事も痛むこともありません。しかし、それでは隣人を愛する事はできません。更に、自分は痛まないで永遠の命がほしい。人間は何と自分勝手な者なのでしょう。しかし、これが私たちの本性です。

 こんな私たちがどうしたら救われ、永遠の命を受けることができるのか。本来なら無理です。しかし、神はこんな私のために御子イエスをお遣わしになりました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)。主イエスは十字架という痛みをもって私を愛してくださいました。主イエスだけが見返りを求めず、自分の側を出て私に近づいてくださいました。それも、自分の命と言う大きな代償を払ってまでも、私を愛してくださった。私たちは主イエスという新しい命を感謝して受け取るだけ、この十字架の愛には力があり、その力は隣人を愛するというところまで私たちを成長させてくださるのです。