【主日礼拝 】長寿感謝礼拝 2013年9月15日
子供の頃はあまり「思い悩む」ことはありませんでした。それは問題がなかった訳ではなく、たくさんの問題がってもお父さん、お母さんがいるから大丈夫、そんな安心感の中で何も心配する事なく過ごしていました。でも自我に目覚めて行く中で『過去』や『未来』を思い悩むようになり、大人になると物事を複雑に考えすぎて、かえって答えを見えなくしていまっています。
主イエスは弟子たちに「だから、命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(22)。そして「烏のことを考えて見なさい」(24)「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい」(27)。と仰せられました。これは私たち人間を本当に生かす方はだれであるかを教えるためです。
思い悩むとはどういうことでしょう。それは、神を忘れた人の中に起こることを覚えておきましょう。よく思い悩む人はまじめで責任感が強い人だと思いがちですが、実際のところ、『思い悩み』の原因は、心の奥深くにある自力に拠り頼む傾向にあります。『思い悩むな』とは言い換えれば、神様を信じなさいと言うことです。神様を抜きにして、心配事があって大丈夫、思い悩まなくてもいい、そのうち何とかなるから、と言うような“いい加減”なことではないのです。
主イエスは思い悩む者に「信仰の薄い者たちよ」と仰せられた。信仰は、大きい小さい、厚い薄いというものではなくて『信じている』か『信じていないか』です。『思い悩むな』が弟子たちに語られた重みは、私たちに二つの生き方の選択を迫っているのです。一つは神様の愛を信じて、自分思い悩みの原因を信頼して神様に委ねて生きるか。それとも神様よりも自力により頼み生きるかです。主イエスは仰された。思い悩みからの解放は、神様にすべてを委ねること。それは忘れるとか諦めるとかいうようなものではなく、確実な問題解決の道です。「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」(30−31)。自分の力だけで何とかしようとする傲慢な心を捨て、主イエスの十字架の愛を見上げて歩みましょう。