【主日礼拝 】                                 2014年2月2日 

  『ささげる礼拝-3』      

ヨハネによる福音書4章27-30節

山岸 明牧師

 主イエスはサマリアの女性に「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(24)と仰せられた。当時の礼拝は外面的な形式や儀式にとらわれ、型通りに行えば、神様を礼拝していると思い込んでいました。霊と真理をもって礼拝するとは、心から献げる礼拝です。私たちは心から礼拝しているでしょうか。毎週の礼拝がいつの間にか儀礼的や形式主義に陥っていないでしょうか。また、日々の生活においても神様を崇め、神を第一としているでしょうか。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)と言われています。

 さて、私たちは常に外側からのもので心を満たそうとします。サマリアの女性は渇いた心を男性という異性に求めました。それはアルコールであっても、ギャンブルであっても、薬物であっても、物や名声であっても同じ事です。外側からのものでは、私たちの心は満たされないのです。主イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠に至る水が湧き出る」(4:13−14)と仰せられた。この御言葉を聞いた女性は、罪深い自分を主イエスの前に献げて、渇く事のない水をわたしにくださいと求めました。

 すると女性は内側から湧き上がるものに導かれて「水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。さあ、見に来てください」(28)。この方が救い主かも知れない。今まで何をやっても満たされなかったのに、私の探していたものが、求めていたものがここにあった。女性は今、内なる満たしによって行動しているのです。主イエスに出会うとはこういう事ではないでしょうか。

 主イエスは仰された。「何を食べようか、何を飲もうかと、何を着ようかと思い悩むな。これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:31−33)。この神様の約束を生活の中で是非、体験して頂きたい。


 
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