【主日礼拝 】                                 2014年2月23日 

  『苦しんで良かった。なぜなら…』      

詩編119編71節

卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。

山岸 明牧師

 多くの苦しみを負ったダビデがこのように言いました。「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」(119:17)。これは苦しみそのものが良かったと言っているのはなく、苦しみが終わって、それを振り返った時に、あの苦しみによって神様のおきてを学ぶ事ができた。故に、苦しみはわたしに良い事だったと言うのです。そのような人生はどんなに素晴らしいものかと思います。

 ダビデは「部下を殺し、その妻を横取りにしました。」(サムエル記下12:1−6)。そこに預言者ナタンが来て、ダビデの罪に対して神様の裁きを言い渡しました。ダビデにとってその時の神様は恐ろしい顔をしている裁き主です。ダビデは罪を悔い改め、救いと、清めを嘆願して行きます。どうか赦してください。罰しないでください。ダビデはこの苦しみの中で一つの偉大な真理を発見していきます。それは、自らの罪を悔い改め。神様にすがって行く中で、神は自分を罰すどころか、逆に喜んで下さっている事を感じていくのです。(詩編51編)。ダビデは自分の罪と向き合う時に、神様の偉大な愛が分っていくのです。神様は従い続ける者を苦しみの中にとどめておかれない。涙の一滴まで拭い取ってくださると。

 十字架の栄光を見るとき、主イエスが苦しまれたと言う事は、神様が苦しまれたと言う事です。なぜ正しい方が苦しまれたのか、それを知る時に、本当の苦しみの解決があるのです。主イエスの苦しみはすべて外側から来たものです。外側ら来た苦しみとは何でしょうか。どこから来たのでしょうか。外側から苦しみを与えたのは誰でしょうか。それは私であり、あなたです。主イエスは十字架で私たちの罪を、苦しみを、悩みを、痛みを、病を負ってくれました。主イエスが十字架で苦しまれたのは、私の身代わりとなって罪を負ってくださった。それが分ったとき、私はすべての苦しみから解放されます。

 主イエスの十字架の苦しみが深ければ深いほど、十字架の愛が深いのです。私たちは今、主イエスの前に悔い改め告白しましょう。イエス様、私のために苦しんでくださってありがとうございます。


 
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