【主日礼拝 】 2014年5月18日
紀元前六世紀、バビロニア軍の侵攻によってエルサレムの町は粉々に壊され廃墟となった。人々は追い払われ、主だった人々は捕囚として連れていかれた。しかも、信仰を旗印に掲げて生きてきた人々だけに、嘆きは大きかった。神は無力なのか、これから先、どのようにして生きて行ったらよいのか。月日が流れ四十年が経ったが、依然としてエルサレムの復興は進まず、城壁も神殿も建て直されることなく、都は廃墟のままだった。苦しみに耐える捕囚の民から出た言葉は「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた。」(14)絶望の嘆きであった。
この世に生きていれば、苦難があることは誰でも知っている。何とかしなければと、踏ん張りがきくうちはまだ大丈夫。しかし、打つ手が無くなくなり、どうにも身動きがとれないときもある。苦しみが長く続き、神様に祈るが依然として事態は何も変らない。すると、私たちの内にもこのような思いが湧き上がってくる。「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた。」
その暗闇の中に主の御声が響く、聞く耳のあるものは聞きなさい。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」(15)。何と素晴らしい語りかけでしょうか。私たちはこの愛に慰められ、励まされ、支えられ、暗闇の中にあって立ち上がっていくのです。また主は私たちに仰せられます。「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主はあなたと共に歩まれる。あなたを見渡すことも、見捨てられることもない」(申命記31:6)。大切なことは一つ、主の愛の中に信じて留まりましょう。「主を信じる者は、だれも失望することはない」(ローマ10:11)。
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