主
イエスにとって、祈りのない生活など考えられませんでした。祈りはいつもの習慣ではなく、あらゆる危機に直面した時に、それを乗り越える秘訣でもありまし
た。悲しむとき、苦しいとき、批判を受けたとき、途方に暮れたとき、誘惑にあったとき、霊的にも、肉体的にも疲れたとき、心からの交わりを必要としたと
き、感謝なとき、どんな時でも祈られました。主イエスは祈ることを通して、乗り越えることのできない危機や、困難や、誘惑など、この地上にはないことを、
私たちに教えてくださいました。
また「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7:7)と更なる祈りの約
束してくださいました。さて、私たちの祈りはどうでしょうか。本当に求め、探し、叩き続けているでしょうか。この約束を信頼して祈って来たでしょうか。心
のどこかで、神様に祈り求めても、現実はそういうものではない。そのような思いに支配されて、本気で、真剣に求めようとはしてこなかったのではないでしょ
うか。
現実をしっかりとらえて生きる事は賢い事であり現実的なことです。しかし、それは信仰的ではなく、主イエスが求めている生き方ではありません。祈りに必要
なのは神様に対する純粋な信頼です。祈りは神様と私たちの絆を深め、信仰を健全なものへと導いてくださいます。祈り願った事と違った結果が出たとしても、
失望したり、落胆などせず、時がたてば、それが、私にとって一番よい事だと分かる時が必ずきます。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留
めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(29:11)。私たちはこの約束を信じて、これからも信仰に
よって祈っていきましょう。