「マケドニア州の諸教会に与えられた恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度
の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」(2)。フィリピ、テサロニケなどいくつかの教会が集まり、パウロの働き
や他の困窮する教会のために献金をしたことが記されています。パウロが感動したのは、献金した教会が極度の貧しさの中にありながら喜んで献金
したことです。豊かな会計、あふれる予算から出た献金ではなく、貧しくともあふれる喜びから出た献金であったからです。これこそ献金の源では
ないでしょうか。どんな理由があっても喜びがなければ、神が喜ぶ献金にはならないのです。
私たちも礼拝の中で献金をささげます。何故、礼拝の中で献金を行うのでしょうか、それは、神様の恵みに対しての応答のしるしとして献げる。パ
ウロがマケドニア州の教会の人々に、あなたがたは「自分自身を献げた」 と言われたように、献金は献身の表れなのです。
さて、聖書では献げものについて「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよ
と、万軍の主は言われる。」私たちは収入の十分の一を、それも残り物ではなく最初に献げるようにと命じています。これは大きなチャレンジです。
しかし、その後にこう仰せられています。「必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐだろう」(マラキ3:10)。
更に「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(6)と、献金を種蒔きに
例えています。これは、私たちが神様から預かっている財産を正しく用いるなら、すべてにおいて(経済的にも)祝福してくださるという約束です。
『ものは試し』天の窓が開き、祝福が注がれるか、チャレンジしてみよう。
「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)。主イエスは私たちのために命を献げてくださったことに感謝しましょう。