「荒れ野」と聞いてどのようなイメージを持つでしょうか。当たり前ですが、荒れ野は人が暮らすところではありません。そこは命を枯らす場所です。私たちも人生の中で命を枯らすような「人生の荒れ野」を経験することがあります。
まるで「荒れ野」にぽつんと一人置かれたかのような孤独感、空しさ、また人生に迷い、どこに進んで行ったら良いのかも分らず、途方に暮れると
きがあります。自分が情けなくなり、惨めな思いになることもあります。人生に失望し生きる力も失せてしまう時もあります。私たちは人生の「荒れ野」の中で
どのように生きていったらよいのか、どのように心を満たしたらよいのか、多くの人が心を痛めさ迷っています。
イザヤは「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(40:3)と言われました。預言者が語っている
「主の道・主のための道」とは、罪によってもたらされた悲惨な現実の「荒れ野」の中に、神様が来てくださるための道なのです。
同じように、洗礼者ヨハネが現れユダヤの荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(マタイ3:1
−3)と叫びました。それを聞いて「エルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川
で彼から洗礼を受けた」(マタイ3:5)とあります。多くの人が人生の荒れ野を歩んでいたのでしょう。
荒れ野で希望を持って生きるには、見えるものに希望を置いてはいけません。パウロは「見えるものに対する希望は希望ではありません」と言って
います。まさに「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(40:8)。それは、荒れ野の中に希望を捜すのではなく、荒れ野をお
造りになった神様に希望を持つことなのです。今、人生の「荒れ野」で飢え渇いている人がたくさんいます。今こそ、福音(良き知らせ)が必要です。私たちも
荒れ野で叫ぶ者となりましょう。