獄中にいるヨハネはキリストの働きを聞いてどうしても確かめたい事があった。そこで、自分の弟子たちを送って主イエスに尋ねさせた。「来たるべき方はあな
たでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(3)。主イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知
らされている。」(4−5)。そして、こう付け加えられました「わたしにつまずかない人は幸いだ」(6)。
ヨハネはヨルダン川で主イエスと出会ったとき「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。「この方こそ来るべき方だ」と確信した。しかし、その確信がいま揺
らいでいる。ヨハネが期待し、待ち望んでいたキリストは、当時ユダヤを支配していたローマを打ち破り、民を苦しみから救ってくださる救い主であった。故
に、もっと大きな革命を起こさなくては、本当の幸福はもたらされるものではないと思ったのである。
まもなくクリスマスです。神の子・救い主がこの世に来てくださった。でも、多くの人は、救い主が来られても何も変わらないと思っている。争いが絶えず、
悪がのさばり、不条理な世界。どこに救い主がいるのかと。こうしてヨハネも私たちもキリストにつまずいた。「キリストは、わたしたちの神であり父である方
の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」(ガラテヤ1:4)。キリストは私
たちをこの悪の世から救うために、世を変革するのではなく、この世に住む私たち一人ひとりの罪を負い十字架について、ご自身を献げる事であった。そして、
主イエスの歩みにおいて明らかにされた事は、神の御心は私たちを裁く事ではなく、愛する事であり、赦す事であったのです。
この世がどんなに変わろうとも、自分は愛されている事を知らなければ、それは闇です。戦争がなくなっても、色々な物に囲まれても、自分が愛されている事
を知らなければ喜びはありません。自分の思いや期待をはるかに超える神の愛に、つまずかない人は幸いです。自分のものさしに振り回されないで、主イエスを
救い主と信じる人は幸いです。