このイザヤ40章を書き記した時代はイスラエルにとってとても辛い時代でした。バビロンとの戦いに敗れ、多くの人々が捕虜としてバビロンに連れて行かれま
した。この時代の預言者も同じように捕囚の身でした。身も心も解放のないまま、バビロンにおける捕囚生活も70年も続ききました。民たちは神様は自分たち
の事を忘れてしまったのではないか。神様の目には自分たちの苦しみが見えていないのではないか。神様は私たちを見捨ててしまった。国を失い、もう帰るとこ
ろもない。そんな悲しみと嘆きの時代を過ごしていたのです。先が見えない、希望を持てないという事は生きる力が失われ、失望の中で過ごさなければならない
辛い時なのです。
私たちも先行き不安になると、どうしても過去に囚われ“くよくよ”したり、一時的な事で気を紛らわせようとしたりします。将来に不安はつきものです。不
安から逃げる事はできません。しかし、私たちは失望するのではなく不安を克服していくのです。そうしないと前進できないからです。
将来の事はいくら考えても分らない。自分の思った通りには進みません。分らなければ、思い切って未来を預ける、委ねる先を持っていなければなりません。
それが「主に望みを置く」ことです。自分に望みを置くと必ず不安になります。何故ならば自分自身どうなるか分らないからである。「主に望みを置く」とは、
希望は神様の御手に預けて、私の手の中には置かないと言う事です。
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(31)。鷲は翼を広げると2〜3メートルあ
ると言われます。その大きな羽(自分の力)でばたばたしたら、すぐに疲れてしまいます。鷲は自分では羽を動かさないで翼を広げて、上って来る風を掴んで上
昇するのです。この御言葉にある“新たな力”を与えられるのは主なる神です。主に望みをおく人には、疲れている時、弱っている時、苦しい時、悩んでいる
時、必ず必要な力が与えられる事を今日の箇所は教えられるのです。