【礼拝メッセージ 】                                 2015年05月17日 

         『の視力は2.0     

ヨハネによる福音書20章11−18節

山岸 明牧師

  週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」(1)。そして主イエスが葬られた墓の外に立って泣いていた。マリアは泣きながら 墓の中を覗いてみると、そこに二人の天使がいて「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているの か、わたしには分りません」(13)と言った。マリアは何が起ったのか理解できず、誰があの大きな石を取り除いたのか、何の目的で取り除いたのか。主イエ スの遺体はどこに行ってしまったのか。マリアは今、何が起きているのかまったく分らず、途方にくれていたのです。

  私たちの人生の終着点が墓なら、マリアと同じように失望・落胆の中で涙するしかありません。しかし、私たちの希望は墓で終わりではなく、死の向こうに永遠 の命があるのです。また、人生の歩みにおいても然り、順調に進んでいた歩みが突然“壁”にぶち当たり、どうして良いのか分らなくなってしまうことがありま す。自分はどこにいるのか、どっちに進んだら良いのか、どうしたらここから逃れることができるのか、どうしたら問題解決ができるのか。どこに答えがあるの かと言って途方に暮れることがあります。

  途方に暮れ涙するマリアに、どこからか「マリア」と呼ぶ声が聞こえた。マリアが後ろを振り向くと、そこに主イエスがおられた。マリアは今まで主イエスに背 を向けて墓だけ(希望のない絶望の世界)を見つめていたのです。そこに心が奪われて途方にくれ涙していたのです。主イエスは仰せられた。「婦人よ、なぜ泣 いているのか。だれを捜しているのか」(15)。なぜ、墓の中にわたしを見つけようとするのか、わたしはそんなところにはいない。主イエスのおられないと ころに答えはありません。主イエスのおられないところで問題の解決を捜しても、そこには道はないと言う事です。

  私たちはイエス・キリストが今も生きておられるという大前提にたって物事を考えていかなければなりません。心の目に信仰と言う眼鏡をかけて2.0の視力をもって正しい選択をし、人生を力強く歩んでいきましょう。

 
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