「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはし
ためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」(17−18)。この「終わりの時」の直訳は「終わりの日々」となっています。
今、私たちは終わりの日々を生かされているのです。終わりの日々とは主イエスが十字架につかれ、そして復活し、天に昇られ、聖霊となって降られた。これで
全てが完成された。故に別の救い主がやってくるとか、新しい預言者の言葉を聞かなくてはならないとか、そういう事はもうないのです。これ以上の新しい事は
起らない。主イエスの十字架と復活は最終にして完全なる救いを語っているのです。
そして、「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」と仰せら
れた。牧師である飯島正久氏が「心の詩」の中でこう書いています。『人の知恵が行き詰まった時、必ず夢がさめている。人の力が失せる時、必ず幻が消えてい
る。夢は老人を若がえらせ、幻は青年に前進する力を注ぐ。民であろうと、国であろうと、家族であろうと、個人であろうと何事によらず、夢を失い、幻を見な
くなった時、すべてにおいて下降線をたどるようになる。その夢は誰が与えるか。その幻を誰が見させてくれるのか。幻を、夢を与えるのは神であると聖書はそ
う告げている。神が見させる幻と夢それを頂くのは、神を信頼し、神を愛し、神に従おうと志し、日夜神の御心はどこにあるかと謙虚に探りつつ祈る人たちであ
る。』
今の時代、若者が幻を見る事や老人が夢をみることの出来ない時代です。しかし、そのような幻や夢は社会が与えるものではなく、聖霊が注がれる
事によってこそ与えられるのです。聖霊によって与えられる幻や夢によって、若者も老人も人生を力強く、希望をもって前向きに生きていく事ができるのです。