教会では「死」と
いう事を当たり前のように話したり、クリスチャンは自分の死や葬儀の事を平気で話したりすることができるのは、死は終わりではないという事を知っているか
らです。死によって命が終わると考えていないからです。主イエスの十字架と死と復活の命を私たちは信じているからです。ですから、自らの死について話す事
ができるのです。特に、その事を深く覚えさせてくださるのが召天者記念礼拝であります。先に天に帰られた故人の方々は、いずれ、私たちにも確実に訪れる
「死」のときまで、日々を懸命に生きる事の大切さを「死」を通して教えてくれています。
パウロは「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶ
べきか、わたしには分りません。この二つの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望
ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」(21−24)と胸の内を告白した。
パウロは、生きた方が良いのか、死んだ方が良いのか、私には分らないと言いました。しかし、生きていれば、フィリピの教会の人々の為に実り多い働きが出
来る。だから生かされている使命を生きようと決めたのです。とにかく、この地上にとどまって自分の使命を果たしていく、それが神様の御心であると確信した
のです。
私たちの中にもキリストの命が宿っています。そして、今日もその命に生かされています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを
選んだ。」(ヨハネ15:16)と仰せられているように、私たちはキリストの恵みに与かり、その証人として立てられている者です。私たちにもやがて訪れる
「死」、我が家に帰る日まで、世界がどんなに混沌としていようとも、「わたしたちの本国は天にあります。」(3:20)を信じ、感謝し、この地上の人生を
「神を愛し、隣人を愛して」、福音宣教に励み、それぞれの使命を果たしていきましょう。