【 主日礼拝メッセージ 】                                                             2015年12月27日 

 遣わされて行く
     

マルコによる福音書16章14−18節

山岸 明牧師

 聖書に「イエスは 町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ち ひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:35−37)とあります。これは決して「可哀そうな」という上から目線ではなく、彼らに対する愛 から出たものです。私たちも以前は飼い主のいない羊でした。しかし、主イエスの愛によって目をとめられ、不思議な導きによって救われ、教会に連なる者とな りました。

 だが、私たちの周りには飼い主のいない羊がたくさんいます。社会に打ちひしがれ、傷つき、弱り果て、求めさ迷っている人々がすぐ近くにいるのです。神様 はその一人一人を救うために働き手を求めています。この教会に集められた私たちは神様から必要とされた者であり、使命を与えられた者たちです。その使命と は、キリストを証することです。自分の救いの体験を証しするのです。見た事、聞いた事、体験した事を明らかにする事です。議論する事ではありません。説得 する事でもありません。納得させる事でもありません。キリストの救いの体験をそのまま証言することです。

 そのために私たち一人一人がこの教会からそれぞれの場所に遣わされて行くのです。ですから、私たちの礼拝は自分の信仰と生活さえ守ればよいというもので はなく、礼拝は神様からのメッセージに対する応答のときでもあります。決心のときでもあります。私を使命がまっとうできるようにと祈るときでもあるので す。イザヤは言いました。「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わっていくだろうか。』わたしは言った。『わたしがこ こにおります。わたしを遣わして下さい」(イザヤ6:8)と。私たちも主よ「ここに、わたしがおります。私を遣わしてください。」と言おうではありません か。そのように答える者を主は必ず用いて下さいます。そして、一人でも多くの魂が救われるように祈りましょう。