【 新年主日礼拝メッセージ 】                                                             2016年1月3日 

 喜び、祈り、感謝して仕えよう
     

テサロニケ(一)5章12−22節

山岸 明牧師

 教会では元旦に集 まり、共に祈り、それぞれ1年の抱負を語り合いながらお雑煮を食べて楽しいひと時を過ごしました。その後、西地区新年礼拝(福生バプテスト教会)に8名の 兄弟姉妹たちと参加をしてきました。福生の行き帰りにたくさんの神社仏閣を通過して行きました。中には表の道路まで行列ができ警備員が誘導しているところ もありました。寒い中、体を震わせながら参拝をするための順番をまっている人たちを見て、人間の心には自然と神を敬う思いが備えられていることを改めて感 じました。「神は人間が神を畏れ敬うように定められた」(コヘレト3:14)とある通りです。

 福生教会に到着し2階の礼拝堂に行くため階段を上っていくと、正面の壁に大きな張り紙がしてあり「クリスチャンを楽しもう」と書かれていました。そし て、その言葉を自分に問いかけてみました。私はクリスチャンを楽しんでいるだろうか。皆さんはどうですか。クリスチャンを楽しんでいますか?

 パウロは言った「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(16−18)。しかし、「いつも、たえず、どんなことにも」 となると自分とは程遠い御言葉に感じてしまうのではないでしょうか。パウロの言った御言葉を自分の中に探し求めていくとするなら、私たちにとって大きな重 荷となり、苦痛となっていきます。だが、パウロは続けてこう言っています。「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることで す」(18)。直訳すると「それが神のご意志である」となります。

 この御言葉は、自分自身の中にある「喜び、祈り、感謝」を追い求めるのではなく、神様が私たちに対してどのような御心を抱いておられるのかを探り求めて いく事なのです。それは主イエスの十字架に示された通りに、私たちがどのような苦しみや悲しみの中にあっても、自分を取り巻く状況が絶望的で希望すら持て ない中にあっても、天地を造られた神が私と共にいて愛して下さっている。そのご意志を信じていくとき、そこから湧き出る「喜び、祈り、感謝」が『いつで も、絶えず、どんなときでも』を可能にしてくださるのです。