【主日礼拝メッセージ 】                                                             2016年1月17日 

 忍耐を持って仕えよう
     

ローマの信徒への手紙5章1−11節

山岸 明牧師

 「仕え るという生き方」。これは私たちのテクニックや技術ややり方ではありません。私たちの生き方そのものです。仕えるとは、相手の幸せの為に、祝福のために自 分をささげることです。時間をささげ、賜物をささげ、心をささげる。仕えることは愛することでもあります。私たちがこの「仕える生き方」を全うしていくな ら、間違いなく幸せな、そして祝福を手にすることができます。

 しかし、私たちが仕えていくとき、奉仕をしていくときに必ず壁にぶち当たります。問題はその壁にぶち当たったとき、それをどう乗り越えるかです。そして 「仕えるという生き方」を続けていきたい。何故ならば、その先には必ず大きな神様の祝福があるからです。仕えることが苦痛になるのは成長していく過程で起 きる出来事です。仕える生き方は、この世の価値観とは正反対であり、罪人の正反対の姿であり、与える生き方は自己中心の正反対の姿なのです。私たちが本気 で仕え・与える生き方をすればするほど、自分の罪、自己中心の部分に触れてくるので、仕えぬくことの出来ない自分の限界にぶち当たるのです。

 パウロも自分の中にそれを見た。そして善をなそうとする意志はあるが、それを実行できない苦しみがあると言った。「わたしは自分の望む善は行わず、望ま ない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや、わたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」 (ローマ7:18−20)と告白した。

 私たちが主イエスの真理に従って行こうとする時に、必ず罪人としての限界にぶち当たります。愛せと言われても愛せない、赦せと言われても赦しきれない者 です。だが、そういう時にこそ、私たちは主イエスの十字架に目を注ぎ、求めるのです。私たちが、自分の力で出来なら主イエスは必要ありません。仕えられな い、愛せない、許せないから、主イエスが私たちの救い主であり、聖霊が私たちの助け主なのです。主イエスの十字架の愛が私の為だったと信じて心から受け入 れるときに、内側から湧き上がってくるキリストの思いが、私たちを動かすのです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」とあるように、私たち は忍耐を持ってこれからも仕えていきましょう。