「ダビ
デはイエスについてこう言っています。わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたし
の心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにして
おかれない。あなたは命に至る水をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくれる」(使徒2:25−28)
人は生きていくときに「希望」が必要です。希望は生きるための原動力になり、人生を明るくしてくれます。『希望がなくても生きていける』という人がいるか
も知れません。確かに生きる事はできます。でも、希望がなければ惰性で生きていくしかありません。惰性の中で、そこに本当の喜びが湧いてくるでしょうか。
生きる力が湧いてくるでしょうか。ある医者が言いました。「患者の治療に一番必要なことは、まず、患者に希望を持たせることだ」。本当にそうだなと思いま
す。よく「夢も希望もなくなった」と言って自ら命を絶つ人がいます。どんなに辛くても、苦しくても、希望があれば乗り越える力が出て来きます。
問題はその希望をどこに置くかという事です。この世の希望は、絶えず不安がつきまといます。また、この世の希望を吟味してみると、どれも本物の望みではな
い事が分かります。これらのものは、失望や、いつかは消えてしまうはかない希望です。では、消え去る事のない本物の希望はどこにあるのか。それは十字架の
死を打ち破り、世に勝利された「復活の主イエス・キリスト」であります。パウロは主イエスに希望を置くとき「この希望は失望に終わることがない」(ローマ
5:5)と言いました。私たちはこの希望によって、現在を「雄々しく、強く」生きる事ができるのです。
神はどこまでも真実なお方であり、必ず約束を守られる方です。私たちの信仰と希望はこのお方にかかっているのです。「あなたがたは、キリストを死者の中か
ら復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっています」(ペテロの第一の手紙
1:21)。希望に生きるとは、主イエスと共に生きる事です。