主イエスは十字架
上で苦しみながら7つの言葉を語りました。その中で神様に向かって祈られているのが3箇所あります。第一言の「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:
34)。次に第四言の「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。そして、最後七言の「父よ、わたしの霊を御手に委
ねます」(ルカ23:46)。
「父よ、彼らをお赦し下さい」とは、彼らを裁き見捨てないで下さい。その罪をわたしが負いますから、彼らを赦してくださいとの祈です。そして、その祈り
が応えられた。それが「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」。このとき主イエスは御子でありながら「父よ」と呼べないものにされ
た。裁きが執行されたのです。しかし、それによって私たちの罪が赦されたのです。すべてが「成し遂げられた」ことを知って、主イエスは最後に「父よ、わた
しの霊を御手に委ねますと」言った。神から「父よ」と呼べないものにされながらも、それでもなお「父よ」と呼ぶのです。
今、十字架の苦しみの中で命が終わろうとしているとき、主イエスに「父なる神」はどのように映っているのでしょうか。エレミヤ31:20「わたしのかけ
がいのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼ゆえに、わたしのはらわたは、彼のためにわな
なぎ、彼を憐れますにはいられない」と仰せらえる。わななくとは“はらわた”がえぐり取られる痛み苦しみのことです。御子イエスを裁いた「父なる神」は、
主イエスとまったき同じ苦しみを、痛みを味わっていたのです。
なぜ、神が痛み苦しむのか、それは「愛」だからです。痛むほどに愛しているのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を
信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネの3:16)。独り子をお与えになったほど、この「ほど」とは“はらわた”がえぐり取ら
れるほどの痛み、それほどの愛なのです。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」は、「父なる神」に対する『信頼と希望』の告白であります。