【主日礼拝】
福音メッセージ  
2004年8月8日
「 祝福のささげもの」
マルコによる福音書12章8-44節
高橋淑郎牧師

 今日はまことの礼拝とは何かを学ぶよい機会です。クリスチャンの中にも、しばしば「礼拝する」とか、「礼拝を守る」と言う人がいますが、本当のところは、「神に礼拝をささげる」、または、「神に栄光を帰する」と言うのが正しいのです。なぜなら、礼拝の中心は、「み言葉(メッセージ)に聴くこと」と、「み言葉に対する応答として、感謝の心をささげる」ことにあるからです。ここにそのお手本を見ることができます。

 主イエスは人々が自由な心で献金している様子を見ておられました。金持ちは金持ちなりに、貧しい人は貧しい人なりに、皆神への感謝をもって献げています。そんな中で、イエスは一人の極端に貧しい女性が献金している姿に目を留めました。他の人は余裕の中からその一部を献げたのですが、彼女は手元にあるすべてを献げたのです。金額としては微々たる物です。しかし、それは彼女にとって生活費の全てだったのです。金額が問題ではないのです。神への感謝の有無こそが問題です。主イエスは彼女の神への一途な(感謝の)心を見て取り、祝福の眼差しを向けられたのです。バルバロ訳新約聖書(ドン・ボスコ社)、マルコ12:44の脚注には、「善い業の価値は、それを行う人の心の愛にかかっている」と説明が加えられています。彼女の命を削るような献げものとその心を主はしかと見届けてくださいました。詩編86:1、11(旧約聖書 p.923)に次のような美しい祈りの言葉があります。

 「主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています。」、「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください。」

 この女性の後姿を追いながら、主は12人の弟子たちに、そして今このメッセージを読んでいるあなたに向かって、この女性に学べと言っておられるのです。願わくは、あの貧しい女性に向けられたと同じ眼差しが、皆さん一人一人の背中を追いかけてくださることを。

本文は長いのでパソコンでお読み下さい

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