今朝与えられた詩122編はどのような歌でしょう。これもまた「都に上る歌」という表題が掲げられています。この詩人は人々が、「わたしもあなたと一緒に教会に行って、神さまに礼拝をささげたい」という一言を聞いて大喜びしているのです。この詩人が生存していた頃、都エルサレムはまだ賑わいを見せ、主の宮を取り囲むようにして家々が軒を連ねています。遠くからの巡礼者にとってそれはうらやましい光景です。「ああ、わたしもこの都のどこにでも良い、住まいがあれば、毎日のように礼拝をささげることができるのに」と。しかし、詩人にとって更に嬉しいことは、たといここに住まいがなくても、この都には各地からすべての部族が引きも切らず上ってきてはイスラエルの定めである主なる神への感謝を言い表していることです。
詩人はそうした巡礼者を見て何を思ったでしょうか。ただ喜び、ただ感動しただけでしょうか。詩人は互いに励ましあいながら主の家にたどり着いた彼らのために神に願います。祈りをささげます。
122編の8−9節を通して、わたしたちは礼拝において祝祷を受けることの深い意味を学ぶことができます。牧会者は礼拝のクライマックスである「祝祷」において父・み子・聖霊による愛と恵みと交わりの豊かさを祈り求め、一人ひとりがその祝福に与るのですが、それを更に凝縮した祈りが「平和と幸い」を祈る言葉です。真の平和は神から賜った十字架の恵み、和解の福音によってのみ得られるのです。真の幸いは父なる神を愛し、世の人々に仕えて下さったイエス・キリストのご生涯を跡付けてこそ得られるのです。
●戻る