ペトロの同行者は、異邦人の上にも聖霊の賜物が注がれるのを見て驚きました。こんなことはイスラエルの歴史始まって以来のことです。しかし、彼らはすぐにその事実を受け入れることができました。ここまでくる道すがら、ペトロの口からあの革なめしシモンの家にいた時に、ペトロ自身が見た幻と、その意味(神は全ての人を愛し、受け入れてくださるということ)を聞いていたからです。だからこの驚きは心を閉ざすような意味ではなく、静かな感動と、大いなる喜びとなったものと理解できます。だから彼らはペトロの命令に背くことなく、コルネリウスたちにバプテスマを施しました。喜びのバプテスマ式となりました。
まことにパウロが言うように、ペトロとその同行者を含めて救われた人たちの中の、「古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなった」のです(コリント5:17)。これまで彼らがて手放せなかった古いものとは、ユダヤ人のみが救われるという誤った民族意識から来る優越性でした。異邦人にとってはコンプレックスでした。しかし今では、「すべてが新しく」されたのです。もはやこの世を分けるものは、国境とか、民族とかではありません。イエス・キリストを信じているか、いないか。聖霊の証印としてのバプテスマを受けるか否かにかかっているのです。