【主日礼拝メッセ−ジ】                            
2006年7月30日   
「分かち合う教会」
使徒言行録11章27-30節
高橋淑郎牧師

ある日、アガポという預言者が聖霊に導かれて、世界的な大飢饉(だいききん)を預言しましたが、「果たしてそれはクラウディウス帝のときに起こった」と著者は言っています。最も打撃を受けたのは、迫害の中にあるエルサレム教会です。その知らせを受けた異邦人教会は、ユダヤに住む兄弟たちに援助物資を送ろうと相談がまとまり、バルナバとサウロにそれを託したということです。

それにしても異邦人の町に生まれたばかりのこの教会の人々のことを考えて見ますと、いくら母教会の人々が困っているとは言え、この大飢饉の中では、自分たちの生活が成り立つかどうかという瀬戸際に立たされていたことは間違いないでしょう。とりわけ、ユダヤ教の迫害を逃れて、命からがらエルサレムから逃げてきた人々にとってはなおさらです。それにもかかわらず、彼らは自分のことは後回しにして、もっと困っている人の為にと積極的に援助を申し出、しかもそれを実行したのですから、彼らのキリスト信仰に根ざした愛は生半可なものではありません。明けても暮れても「キリスト、キリスト」と口を開けば主を讃美している彼らを見て、周囲の人々は「キリスト屋」(クリスチャン)と呼びました。教会の人々はこの呼び名を受け入れました。そしてその名に恥じない愛の奉仕をもってエルサレム教会の窮状(きゅうじょう)を共有したのです。母教会の人々は届けられた援助物資を前にして、また異邦人教会の兄弟姉妹がどんな思いで送り届けてくれたかをバルナバとサウロから聴かされて、泣いたのではないでしょうか。

聖書を学ぶとはこういうことなのです。主イエス・キリストの父なる神に礼拝をささげるとはこういうことなのです。聖霊に導かれて祈るとはこういうことなのです。