【主日礼拝メッセ−ジ】                           
2006年9月24日   
「イエスのみもとに
使途言行録13章38-43節
高橋淑郎牧師 
神は聖なる方です。人が犯す罪は、それがどんなに小さいものでも憎みます。しかしまた、神は愛です。神は人の心に隠された一点のしみも汚れも罪も憎みますが、罪人を救うために、その独り子を世に下し、十字架においてわたしたちの身代わりの死を遂げさせ、わたしたちの罪を処理して下さいましたから、神はもうわたしたちの罪を罰する必要がなくなったのです。これほどの恵み深い神の愛を心から信じるなら、わたしたちの罪は赦されるのです。
更に、神はイエス・キリストを救い主と信じる者を義として下さいます。「義とされる」とは、「神が義と認める。無罪判決を下す」という意味です。「罪の赦し」と「義とされる」ことは一つではないのです。例えば、限りなく黒に近い灰色だけれども、疑わしきは被告人の利益という判決があります。あるいは有罪だが一定期間、刑の執行を猶予する。その間に新たな罪を犯さなければ、自由の身になれるという判決があります。しかし、神がわたしたちを裁く審きはそういう中途半端で条件付の赦しではありません。正真正銘犯罪者のわたしなのに、神は復活のイエスの故に、「無罪だ」と宣告して下さったのです。罪の罰としての「死」を滅ぼされたからです。
罪が解決されていないとき、聖書はわたしたちに「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と厳しい言葉で迫ってきました。しかしイエスがわたしの罪の為に贖いの死を遂げて下さいました。更にこの方が復活して下さったことで、わたしたちは罪の赦しを受けたのみか、義とさえ認められたのです。
愛する皆さん、今、あなたの前に神の愛と赦しの道が開かれています。神の差し出してくださる救いの御手にすがりましょう。